back 理事長 相沢英之 のメッセージ
       「地声寸言」
  2009.08.07リリース

第四十七回 <「移民の話」>
 ついこの間、芥川賞、直木賞の受賞者の発表があった。二人とも私の知らない人である。かつて文学青年であった私も、近頃の若い人の書いたものにはなかなかついて行けないので、いたし方ないと思っている。
 ところで、ふと思い出したのは芥川賞の第一回の受賞者は石川達三で、作品は「蒼氓」であった。私も読んでいたが、今は南米移民を題材にしたものとしか思い出せない。
 ところで移民と言えば、国外へ移り住むことと観念され、戦前・戦後を通じ南米移民があり、又、満州国の成立後あたりから満州開拓義勇隊が二十数万人も満州の国境周辺を中心に農業開拓に従事したことが代表的と言えよう。
 もっとも、日本人の起原について騎馬民族説、天孫種族説などいろいろあって、それぞれ学界の権威者達が自説を主張し合っているようであるが、ともあれ、アイヌなどの原住民の住むこの島国に、様々な理由はあるにせよ、多くの移民が北から南から流れ込んで来たことは間違いなかろう。
 この間も旧国名を調べてみたら、韓国語を起原となると言われるものが、アイヌ語からの転訛と並んで少なくないことがわかって、いささか驚いた。
 いずれにしても日本民族はいろいろな地域からこの島国に渡って来た人達の子孫であることは確かである。だから、よくみると、これは日本人に限らないと思うが、実にいろいろな風貌、体形を持つ人から成り立っていることがわかる。
 一つの笑い話を紹介する。もう何十年も昔、水田大蔵大臣が国際会議でパリに赴いた際、当時大使館の書記官として出向していた大蔵事務官竹内道雄(後に大蔵事務次官・故人)を見て、あの日本語のうまいフランス人は何という名前かと秘書官に尋ねたという逸話が遺っている。そう言えば水田大臣の質問もごもっともと思われるくらい彼は外人に似た顔付きであった。これはほんの一例に過ぎないが、日本人は単一民族から成るといってひどく叱られた議員もいるが、少なくとも多民族が混血して生じた民族であると思う。
 私は横浜育ちである。小学生の頃から港へ出かけて船を見るのが楽しみとなっていた。
 クウィーン・エリザベス、クウィーン・メリーなどの豪華船も見た。テニスコートや水泳プールを持っているクウィーン・エリザベスなど半日がかりで船内を歩き回った。小さいが、あらゆる戦闘機能を持っていたと言われたドイツの戦船ドイツチユラントも見た。米国の航空母艦サラトがや何隻もの巡洋艦、駆逐艦も見学した。米国の軍艦は船内の大ていのところは見せてくれた。日本のと比べると全く手入れの行き届いていない水上魚雷発射管などを見て、こんなことでいいのかな、と思ったりしたが、その米国の艦隊は脆くも日本の連合艦隊は負けたのである。
 余計なことを書いたが、その横浜の港を発つ移民船を見送りに行ったこともあった。ブラジル、リオデジャネイロ、サントス、ブエノスアイレス、などの船名を持つ大阪商船の南米航路の船は横浜、神戸で移民を乗せて南米へ向ったのである。
 航空路などのない当時のことである。移民の一家は全財産を畳んで、まだ見ぬ南米の地へ旅立ったのである。横浜の大桟橋をまさに離れようとする船のデッキにいる移民の人達と岸壁の見送り人との間には五色のテープが虹のように何百本となく投げ交される。そのうちドラの音が船内を一巡し、鳴り止むと同時に白い船がしずしずと船首を港外へと向け岸壁を離れて行く。ブラスバンドを蛍の光を音高くかなでる。船の進行につれて、岸壁の人達が先へ先へと動くが、やがてテープが次々に切れて波に沈んで行く。もう岸壁は終りだ。見送る人も見送られる人もただ涙。もう生きて二度と会えないかもしれない今生の別れとなると思えば、ただ涙となる。すっかり切れて五色の水の流れのようになったテープを引きずって、船は向きを変え、速力を増して沖に向って行く。見送る人達は手にいつまでも切れたテープの束を握ってそれを沖に向って、打ち振っている。
 私の通っていた横浜の中学校は四年生の修学旅行が関西旅行であったが、行きは横浜の港から神戸まで、この移民船に乗る慣わしになっていた。移民の訓練所が横浜と神戸にあったので、神戸港から乗る移民の数も多く、その分が横浜、神戸間空いているので、多分安く乗せていたのではないか。
 だから、私達は移民船が港を離れる、先に述べた光景を船のデッキからもつぶさに見たし、又、移民の人達の真似をして五色のテープを買い込み、岸壁の人達と誰ともなく投げ合ったのである。
 横浜から神戸までは一書一夜の船旅であったが、船室は特別三等船客としてペンキも混って変な臭いがする上、丸い船窓のガラスのところまで波が走っているという倉庫の様な船室に三段式の蚕棚のようなベッドに眠れというのである。南米まで四十日もこんな船室で過すのかと思うと、移民も大へんだなと思った。その上、東京湾を出れば外は太平洋。ローリングとピッチングの連続で、出された三度の食事もとてもまともに食べられなかった。
 しかし、そこは中学生の団体のこと。船室を抜け出して甲板で夜の潮風に吹かれながら右往左往。他の中学校の生徒と何かのきっかけで小ぜり合いとなる。どうも、それが修学旅行の年中行事となっているようであった。
 私は、昭和四十九年大蔵事務次官の時に当時の福田大蔵大臣の代理で招かれてブラジルを訪ね、ウジミナスの製鉄所、イシブラスの造船所などの経済協力案件について協議した他、日本人移民の最も多いサン・パウロで数百人もの歓迎会に出席し、日本人移民の人達が多くメンバーとなっていて、前に赤い鳥居のある建物で開かれているロータリークラブの例会で挨拶をした。又、平成七年パラグアイ日本人移民六十周年の記念の会に日本パラグアイ友好議員連盟の会長として出席しワシモス大統領の歓待を受けた。
 日本からの南米への移民の一番多いのはブラジルで、今や日系人が一三〇万人もいるといわれていた。パラグアイの日系移民は当時七千人と少ないが、当地としては新しい農産物の生産を始めたりして、評価を受けていた。日系移民の手による農産物の生産量は小麦で同国の七%、大豆で二二%となっているという。
 イグアスの湿布は世界一とも言われているが、この地の日本人移民の農協の研究所で小麦などの農作物を不耕作で相当な収量を挙げる生産方法を始めと聞いたが、日本人移民一世帯平均の耕作面積は約二五〇ヘクタール、一番広い人で一二五〇ヘクタールに達しているという。私が見に行った農家は耕作面積四〇〇ヘクタールで三人のブラジル人を雇い、自分は毎週二〜三回ゴルフを楽しんでいると言う。
 しかし、ここに来るまでの苦労は並大抵でなかったことは、ブラジル移民について書いたものでいくらか知ってはいた。ジャングルのような土地を鋤鍬一丁で開墾して農地として仕上げ、辛苦何年もかかって自立して行く過程は大へんなものであった、と思う。
 南米の日本人移民は経済的に自立し、生活が豊かになって来るとともに政治行政の面にも進出している。私がブラジルを訪ねた時、大蔵大臣他数名の閣僚が出席する晩餐会に招かれたが、その閣僚の一人、鉱山石油大臣は日本移民の二世であった。食事中は専ら英語が共通語であったが、散会後独り残った彼は他の閣僚の姿が消えるや否や日本語でしゃべる始め、かなり長いこと会話を楽しんでいた。移民出身者の気の遣いようをかいまみる思いであった。
 経団連の当時の会長土光敏夫氏はメザシで朝食という質素な生活でも有名であった。少しでも懐に余裕が出来ると面倒を見ていた学校に凡て寄附することも聞いていたが、まことに立派な方であった。この土光さんが亦ブラジルに対する経済協力に極めて熱心で、私がブラジルを訪問することを聞かれ、ちょっと会いたいということでお会いしたが、あのお年で片道フライトで丸一日もかかるようなブラジルを既に二十数回も訪ねられたという話であった。日本を中心とした世界地図ではよくわからないが、これをひっくり返して大西洋を真中に置いた地図では、ブラジルはヨーロッパやアフリカに対する輸出基地として、まことに恰好な位置を占めている。農産物だけではなく、工業製品の輸出にも力を入れようとしていた。
 当時、ブラジルは新首都ブラジリアの建設に力を入れていたが、およそあらゆる建設資材をリオ・デ・ジャネイロなどからの空輸に頼らざるをえなかった事情が急激なインフレの原因ともなったと言われていたが、カタカタというF86Fの戦闘機を改造した小型旅客機でリオから飛んだ私達を待ち受けていたのは壮大な首都機能の中核となる国会や各省の庁舎の建設途中の首都の姿であった。
 その後、ブラジルを訪れる機会は一度あったが、首都には寄れなかった。ブラジリアのあの壮大な首都建設事業はとつくの音に立派に完成していると思っているが、私が、首都機能の東京からの移転に反対であったのは、一つはブラジリアの例を見ているからであった。
 ともあれ、日本からの経済協力案件としてウジミナス製鉄所の出銑量を二〜三倍に拡大すること、石川島播磨関連のイシブラスの造船所を増強すること、それから検討中のものとして、電力の塊とも言われるアルミニウムの生産に必要な電力の確保のため、アマゾン河口の辺に発電所を建設することなどが議題となっていた。ブラジル政府は、そのなかでも特にウジミナスの製鉄所の拡充に意欲を持っていた。鉄は何をするにも必要なことは言うまでもないが、ブラジル政府はなかでも自動車の国内生産に大きな期待を持っていたと思う。
 ドイツはブラジルと昔からいろいろ縁があり、ブラジルの工業立国には強い関心を持っていると聞いていた。
 農林予算と移民は関係が深い。私は、四年間主計局で農林担当の主計官をしていたが、移民の現地における土地改良その他農業振興のための費用を助成することを要求され、ガタパラ地区などはとくにかなり多額な補助金を支出したことを記憶している。この地区のことについては「ガタパラ通信」なる移民に関する現地の情勢を巨細となく博えるリーフレット様の印刷物が絶えず送られて来た。潅漑排水に始まり、移民が何とか農業生産の成果を挙げられるように配慮をして来たが、何といっても日本内地とは違う環境のもとでの農業開拓事業であるだけに労多くして功少なき事情もあった。入植を放棄する家もかなりあったが、残った農家は耕作面積を増やし、それなりに成績を挙げていると知らされていた。それから五十年近くも経過しているが、現状はどうか、一度知りたい思いがする。
 パラグアイで桐を植え、搾油工物を作るというので、それにも補助金を出したが、この工場は失敗したという話をかなり経って聞かされた。
 新しい広大な大地を求めて勇飛する去を惊き、移民となって太平洋を渡って行った人達はこと去と違って思いもかけない苦労をしたという話はいろいろ耳にしているが、中には立派に成功した人もいる。
 急増する人口対策としてもされた移民事業であったが、今や少子化現象に悩む日本へ働く場所を求めて外国から人が入ってくる時代となった。しかし、不法滞在などを続けている外国人数も二十万人もいると聞いたことがある。かつての移民の二世・三世などがかなり多く日本に還流しているとも聞いている。
 少子化現象に悩み、現に総人口の減少を来しつつある日本が外国から労働力を如何に受け入れるかは、一つの大きな課題となっている。
 余り沢山外国人労働者を入れるとトルコ人の移民に悩むドイツのようになる懸念もある。といって、高齢化の進む日本の生産力を維持し、医療福祉面などの必要要員を確保するためにも外国からの労働力の移入は遅かれ早かれ避けられない将来を思えば、問題の解決を 徒らん放置しておくことは許されないと思う。
 宗教、民族の違いはなかなか乗り越え難い世界平和を乱す要因であるが、文明の発達、グローバルな人的交流は宗教、民族を超えて人類の繋りを深めて行くのではないかと、遠い遠い期待を持っているが、読者諸賢如何に思われるか。
 
 


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