back 理事長 相沢英之 のメッセージ
       「地声寸言」
  2010.04.01リリース

第六十一回 <「三月二十五日は何か」>
 たまたま今日は三月二十五日である。地声寸言のテーマを思い悩んでいたら、本棚に「三六五日事典」(社会思想社編)が眼についた。副題に「今日はどんな日か」と書かれているように、一年三六五日のそれぞれの日に日本で何が起ったか、を記しているという珍しい本である。
 それをタネにして「一回分」を埋めてみた。
 ところで、三月二十五日には何があったか、である。
 
 「二条良基・玖波集(つくばしゅう)」(延文元年一三五六年)三月二十五日、関白二条良基は救済(ぐさい)の助力をかりて玖波集という連歌集を編んだ。翌年には連歌集としては初めて勅撰に准ぜられることになり、後世、斯界で最も権威をもつようになった。詠者には公家ばかりでなく足利尊氏・義詮・道誉ら武家も多い。
 
 「はじめて電燈ともる」
 明治十一年(一八七八年)のこの日の夜、電信中央局で海外通信を行う開業祝賀会が工部大学校で開かれたが、宴なかば会場の明かりが消され、米人の指導で五〇個のアーク燈が点じられた。わずか十五分間位の点燈時間であったが、石油ランプやガス燈しか知らない人々は感激して拍手をした。以後この日を記念して電気記念日とした。
 四年後には、東京電燈会社が創立され、明治十五年(一八八二年)には、皇居、参謀本部、鹿鳴鉱などに送電されるようになった。
 私は、電気記念日というのを開いたこともないから、かなり前から言われなくなったのではないか。
 大正生まれの私は、街の角に立っていたアーク燈を知っているし、又、石油ランプは自宅でも使っていたので、子供の時手入れさせられたことを覚えている。新聞紙でランプのススが綺麗に拭きとれるのであるが、薄いランプのホヤを壊して叱られたことも覚えている。
 ガス燈も記憶がある。エジソンが発明したという白熱燈も今や使われなくなり、ついに生産もストップになるという新聞記事を先だって見た。科学の進歩はとどまることを知らないな、といまさら思う。
 長じて電燈のないところで暮した記憶が二つある。一つは、戦後ソ連に抑留された時、収容所は十二時で電燈が消えた。あとはどうしたか。細かく割った白樺の枝をペーチカの火でともして便所に通ったりした。
 もう一つは、それより前、中支は湖南省の咸興という田舎の小都市の旅団司令部に勤務していた時である。発電所が米軍の空爆で破壊されて、電気がストップしていたのである。本を読む時、石油ランプの光に頼っていたが、手をカヤの外に出していたので、マラリア蚊にさされ、三日熱、四日熱と酷い眼にあった。飲むキニーネのせいで食事が喉を通らなくなり、一週間で一〇キロも痩せ、旅団長に「ユーレイ」と呼ばれる程になった思い出がある。その旅団長は中将に昇進して師団長になり広島に赴任したと聞いた。八月六日の原爆に遭ったのか、お気の毒である。
 
 「川島芳子」
 東洋のマタハリと言われた川島芳子は戦後、国民政府により北京で戦犯として処刑された。清朝粛親王の第十四王女(中国名愛親覺羅顯シ)として生れた彼女は満州浪人川島浪速の養女となっていたが、長じて軍装をし、かの有名なマタハリに似た活躍をしていたとされていたが、戦後、中国人として日本軍に協力したかどをもって軍事法廷で漢奸(スパイ)とされ、この日に北京で銃殺されたという。
 私の亡くなった妻の父親が当時北京で在留邦人の世話役をしていたが、処刑された川島芳子の引受人の一人であったという。芳子が死ぬまで着ていたというコートを一着形見として貰い、それを亡妻が着て内地へ引き揚げてきたことは良く知っているが、それは、今は多分なくなったと思う。あれば、私の友人穂刈氏が長野に作った「川島芳子記念館」に進呈したいと思っていた。
 女スパイと言えば、戦前ハリウッドの映画に「間諜X二七号」という女スパイものがあった。マレーネ・ディートリッヒがそれで、彼女の黒いマスクの下の笑い顔が本当に素晴らしく晝は幻、夜は夢となって中学生の私を悩ましたことが、今でも忘れられない。ただし、戦後、彼女が来日した際、高い入場料で見に行き、歌も聞いたが、百万ドルの脚も今は衰えて、若い時の夢はそのままにして置くべきだったな、と今さらながら思うばかりであった。
 
 「誕生」
 トスカニーニ、タクトなしでとってもスタイルのいい指揮者は一八六七年。樋口一葉は一八七二年(明治五年)。
 一葉の「たけくらべ」、「大つごもり」、「十三夜」などを初めて読んだのは小説に耽溺していた一高在学中であった。こんな素晴らしい文章を遺した彼女が僅か二十五年で短い生涯を閉じたということも驚きであった。たけくらべの出だしの「見返れば大門の柳いと長く・・・」というくだりはかつて吉原の松葉家で一緒に食事をした久保田万太郎さんも愛唱されていて、これと泉鏡花の歌行燈の中の一句「月は格子にあるものを桑名の妓者を宵寝を見える」を口ずさんだら、先生たちまち上機嫌になられて、たけくらべと歌行燈を今私は大学で教えているんですよ、ということであった。
 戦後、私はソ連抑留から引き揚げて間もなく下京税務署長に赴任した。管内に島原があって、十三年ぶりかに大夫の道中が復活した。御案内を受けてくぐった大門に植えられた見返り柳を見て、ふとたけくらべの一節を思い出した。今はもう六十年の昔である。角屋とともに有名な輪違屋の妓糸里のことを描いた浅田次郎の小説を読んだ(「輪違屋糸里」)。
 誕生は右の二人のほか、蒲原有明(詩人・一八七六年)、バルトーク(作曲家・一八八一年)。
 逝者した人。蓮如(僧侶・一四九八年)、ノヴァーリス(詩人・一八〇二年)、青木繁(画家・一九一一年)、ロイト・ジョージ(政治家・一九四五年)、眞山青果(劇作家・一九四八年)。
 眞山青果は小栗風葉の弟子となるなど作家を志したが、新派の喜多村緑郎に勧められて新派の見習作者となったのが振出しで、一葉の「たけくらべ」などの脚色で名を挙げたが、後、数々の歴史劇に取り組み、固到な史実考証の上に立って「元禄忠臣蔵」などの名作を遺したが、西鶴学者としても一権威であった。
 ロイド・ジョージの第一次世界大戦について記した大著を大学在学中長いことかかって原書で読み終えたことを思い出す。
 同じ月日にこうしたいろいろな出来事があったことは、何か意味があるだろうか、と考えると、どうも、そうとも思えないが、読者諸賢はどう思われるか。
 
 


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