back 理事長 相沢英之 のメッセージ
       「地声寸言」
  2010.06.09リリース

第六十九回 <「大洲と米子」>
 私のかつての選挙区鳥取県西部の中心都市米子市の市役所の傍に「中江藤樹先生成長之地」の碑が建てられている。初めて見た時、あれ中江藤樹は近江聖人と言われた人なのに、何故米子で育ったのだろうか、と訝しく思った。
 ところが、私が幼稚園に通ったことのある愛媛県大洲市に中江藤樹の名前が残っていたことを何とはなしに覚えていた。
 私の父は東京高師を卒業後、鹿児島市、大分県宇佐市、群馬県桐生市、新潟県高田市と各県の中等学校の英語の教師をして大洲中学校に赴任して来たのが大正11年のことであった。私は宇佐の生まれである。
 今は鵜飼でも知られている肱川の河畔に近い大洲幼稚園に1年ほど通ったであろうか。まだ駅馬車が走っている頃で、夕方になると軒灯を光らした馬車が御者の吹くラッパの音とともに通りを駆けて行く。ガス灯が町角に灯っていたのを覚えている。
 さて、米子と大洲の接点は何か。物の本によると、元和3年(1617年)に大坂の陣の功績によって、それまで米子の城主だった加藤貞泰が六万石の石高を与えられて大津に入城した。それまでの城主は慶長14年(1609年)に入城した脇坂安治であった。そして、2代加藤泰興の時代にそれまでの大津を今の地名大洲に変えた。以後、明治維新まで大洲は加藤氏の拠点となった。
 中江家は藩主加藤氏とともに米子から大津に移って来た。大洲藩の地方代官を勤めていたという。
 藤樹は少年時代から学問を志し勉学に励んでいた。藩主加藤貞泰は、時代の流れの先をよく読んで、平和の世の中になったのだから、これからは武士も学問が大切だと考え、藤樹に注目し、この若い学者が藩の体質を変えてくれると思い、藤樹に藩士への教育を命じた。
 ところが、戦国の気風が色濃く残っていた江戸初期のこととて、城の武士たちは、藤樹を「孔子様」といってからかい、藤樹の講義にはほとんど出なかった。
 そもそも藤樹の故郷は近江国(滋賀県)の琵琶湖畔であったが、ちょうど彼が体調を崩していた折、父親が死に、母親がひとりぼっちになってしまったので、孝行を大切にする儒教の教えに従って故郷に戻って母の面倒をみることを藩主に願い出たが、藤樹の才を惜しむ藩主はなかなか許可を与えなかった。思案に余った藤樹は遂に脱藩して近江に帰ったが、藩主は「追うな、黙認してやれ」といってそのまま許したという。
 藤樹は琵琶湖畔に塾を開き、身分制度が厳しい時代にもかかわらず、武士だけではなく漁民や馬方や農夫などを相手に、幅広く平等に孝の道を説き続けた。身分を越えた平等思想を説いた彼は後にその遺徳を称えて「近江聖人」と呼ばれるようになった。
 大洲で短いながら住んでいた記憶は鮮やかに残っている。肱川の流れは綺麗で、夏は蛍が川畔を飛びかい、団扇を持って蛍狩りに出かけたことも覚えている。近所に鍛冶屋が鞴(ふいご)の火を光らせて、馬の蹄鉄を打っていた。脚に蹄鉄を打ちつけるのを痛くないのかな、と長いことしゃがんで見ていたこともある。まだ電気が行き渡らなかったのか、石油ランプも使っていて、新聞紙でランプのホヤを磨いたことも覚えている。薄く破れ易いホヤは新聞紙で綺麗になったが、壊して叱られたこともあった。
 大洲は四国88ヶ所の第何番目かの札所があって、夏ともなるとお遍路さんがよく門に立ち、鈴を振って御詠歌を唄っていた。鈴が聞こえてくると、母が勝手口から何合かのお米をもってお遍路さんの肩から吊るした袋の中にこぼして入れてやっていた。
 家はその頃は珍しい町営住宅の一角を借りていた。崖の上にあって、馬車の通る道までは原っぱで、子供の遊び場になっていた。何をやっていたのか、覚えていないが、父がテニスに凝っていて、毎日中学校のコートで放課後プレーをしていた、そのラケットを振り回していた記憶もある。ガス灯に小石を投げて壊し、母から手ひどく叱られたこともあった。
 隣の家が佐野さんといい、そこの息子が中学生で父のところに英語を教わりによく来ていた。晝間、佐野さんの家に遊びに行ったら柿の木に吊るした真鋳の標的を空気銃で打っていて、私も打たせてくれたことがあった。
 それから三十数年が経った。大蔵省主計局で地方財政担当の主計官をしていた私は、愛媛県に地方財政実態調査で出張する折があった。県、松山市、宇和島市の調査をしたが、足を伸ばして大洲に立ちよることにした。大洲の城はもっと大きかったのにと思った。町は広いようで狭い。30分も歩いたら見当がついた、大洲中学校は県立大洲高校となり、佐野さんの家はもとのまま、空気銃の標的を吊るした柿の木も健在、何と私が住んでいた家もそのままの姿で崖の上にあった。崖と思っていた石垣は大人の背丈もなく、広いと思っていた原っぱもほんの子供の遊び場で雑草が生えていた。佐野さんはたまたま在宅で、もちろん中学生の時の面影はなかったし、何と大洲高校の教頭をしているとのこと、巡り合わせに驚いたりした。ともあれ、大洲市と藤樹の故郷・滋賀県高島市とは、現在都市提携を結んでいるし、大洲市と米子市とも交流都市となっている。(この稿の歴史的事実に関することは、「悠々浸遊」という機関誌に載せられていた童門冬二氏の連載記事をお借りした)
 読者諸賢、世は縁というが、いろいろあるものであると思うが如何。
 
 


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