back 理事長 相沢英之 のメッセージ
       「地声寸言」
  2010.06.24リリース

第七十三回 <「地方空港の悩み」>
 私のかつての選挙区米子は国鉄の鉄道管理局が所在して、その強固な組合の組織を軸として社会党の勢力が強く、定数4人の鳥取県中選挙区の西部から社会党の代議士が2人が久しく議席を占めていた。
 米子の空港は戦時中に軍の操縦訓練のために設けられたものであるが、戦後、山陰の航空網の中心として発展を始めていた。この空港は航空自衛隊(最初は輸送航空師団)の所管する空港であったが、民間航空に利用が認められていた。
 昭和49年、大蔵省を退官して鳥取県から衆議院議員に立候補し、昭和51年12月初当選した私は、山陰の発展のため何よりも交通路の整備、とくに航空路の整備に積極的に取り組むこととした。
 当時は米子・大阪の4便の外、米子・東京の2便があるだけで(もっとも米子便もあった)、東京へ往復するには大阪を中継とすることが多く、同じく大阪を中継とする高松通いの大平正芳先生とよく顔を会わせた。
 私は、東京直行便の増便から始めて、名古屋便、札幌便、福岡便を次々と実現させた。元来自衛隊の空港であるための制約があった他、これらの便の開始には隣の島根県の出雲空港を強力に支援する国会議員の先生方との競争にも神経を使った。
 私は、米子・広島便を是非実現したいと思っていた。現在と違って、中国地方を横断する高速道がないために米子・広島間は車で4〜5時間かかっていた。何といっても中国地方の行政の中心は広島にあり、何かと中央官庁との折衝のために広島へ通うことが少なくなかったので、空路便の開設は皆が待望していた。
 米子と広島の間には言うまでもなく中国山脈が横たわっている。かつて、選挙応援に来た宮沢総理が米子から広島へヘリのチャーター便で飛ぼうとして天候不良のため三度、中国山脈を越えようとして、果さず、多数俟っている広島の会場に到着することができなかったという出来事もあった。
 日航、全日空、東亜航空に話をかけたが、いずれも拒否。当時、広島、松山及び別府の間に三角空路を敷いている旭航洋という元来ヘリを飛ばしている会社に交渉をし、やっとある日セスナ機でテストフライトをするまでに漕ぎつけた。米子空港を飛び上がったと思ったら、直ぐ中国山脈を越える、あっと言う間に広島空港についた。新空港ではない、町中の空港である。帰りも早い。いよいよ本格的に取り組んで貰おうと思っている矢先に、この会社のヘリが続いて墜ちるという事後があって、この計画は実現しなかった。
 その後、折角でき上がっている、名古屋便も来年の1月4日が最終で打ち切りになるという。高速道の整備、景気の後退などによる航空界の不況による止むを得ないものとはいえ、残念でならない。その代わりと言ってはおかしいが、米子・ソウル便がアシアナ航空によって実現するなど、米子空港の国際化が進んだこと、滑走路を長年念願の2500メートルへの延長が実現したことは嬉しいことである。
 羽田、成田、関空などのハブ空港化も反対ではないが、すいている地方空港から外国への路線の増強も促進して貰いたい。CIQの人員整備の問題などがあるにしても、そのためにこれらの空路の増強が遅れるようであってはならないと思っている。
 
 


戻る