back 理事長 相沢英之 のメッセージ
       「地声寸言」
  2010.08.24リリース

第七十七回 <「酒はどこでも」>
 昔は高等学校(旧制)に入れば酒やタバコは初めて当たり前ということになっていた。私もそうだった。まだ満では18才にもなっていなかった。
 その後、軍隊へ行き、戦地(中国大陸)へ行くようになると、気が高まっているせいもあっただろう、タバコは1日百本以上となり、酒は一寸腰を据えれば一升という程に手が上がっていた。無論将校仲間で1日過ぎて日が暮れれば、「ああ、1日生命があってよかったな。まぁ一杯飲もうか」という工合になっていた。内地の酒、まして灘の生一本など思いもよらぬ、現地産の合成酒であって、余計飲むと頭に来るというので、アタピンと称させられていた。しかし、馴れというのはあるもので、そのうち一升飲んで何ともなくなって来たから妙なものであった。
 ビールは上海の第13軍の貨物廠に製造のかかるサカエビールが主で、味はともかく、飲むと小水の出がつまるようだといって評判は良くなかったが、暑い漢口の夏にはそれでも欠かせないものであった。
 そのわれわれが、所かわって北朝鮮での終戦後、ソ連邦はタタアル自治共和国の小都市エラブガの収容所で暮らすことになったのである。
 初めは、ひどい食糧不足で(ノルマはあったが、ソ連の管理者側が横流しをせっせとやっていたらしい)1人平均10キロも痩せるような始末であったから、いかにして食べ物を確保するかに神経が集中していた。それが、ソ連側の食料事情も良くなってきたのだろうし、それにノルマを確保せよという運動が功を奏して、まぁ痩せながらも何とか体重を維持できるようになって来ると、次はアルコールをということになるのであった。
 猿でも酒を造って飲むという。人間が酒を造れないわけがない。とばかり、いろいろ工夫をして酒を造るようになった。
 一つは、毎日配給される黒パンの耳などを溜めておいて、水筒に入れ、パン工場から酵母菌を分けて貰って加え、ペチカの上に吊るしておくと、さぁ10日ぐらいすると、水筒の栓がポンとはねる。アルコールが出来たよという合図であった。むろん、うまいというほどの出来ではないが、干天の慈雨というか、とにかく甘露々々なのであった。配給の砂糖を加えれば、なお出来がよくなった。
 次は、じゃがいもである。これはよく蒸して、やはり酵母菌を加えアルミの皿に入れてペチカの上に置いておくと、やはり10日間ぐらいでアルコールが誕生しているのである。これは飲むというわけにはいかぬ、スプーンで掬って食べるのである。
 次は、ラーゲルの外のマガジン(小売店)で売っているウォッカの密輸入である。これは一寸手間もかかるし、冒険であった。冬は外套を着ている。その中に水筒を吊るしておいて、食糧運搬班が倉庫に食糧を受領に行く時にコンボイ(護衛兵)の眼をごまかして、マガジンのおばさんに水筒と金を預け、次の機会に受け取るという仕組みであった。当時ウォッカは1リットル100ルーブルという懲罰的な値段であったが、将校が支給される月15ルーブルのうちから1人10ルーブルぐらいづつ供出して買うのである。
 この貴重なウォッカは、ただで飲むわけにはいかぬ。砂糖を加え、牛乳を加え、ついでにすぐりなぐの実を加え、10倍ぐらいに伸ばして飲むのである。
 ウォッカは60度ぐらいのアルコール度数だから、10倍に伸ばしても6%のアルコール分、ビールくらいの頃合になるから。アルコールの切れた身体は陶然たる酔いを与えてくれる。
 ただし、この密輸方法には当然危険が伴うので、吊るしてある水筒も見破られて捕まえられたこともある。重営倉である。食事も1日1食ぐらいに処罰となる。それで、犠牲者を助けるために衛兵のもっている鍵を何と言って借り出し、鍛工場でコピーを作り、それを使って夜分しっかり差し入れをしてやったりした。ラボータ(労働)なしで食事が出来る、というので喜んでいた。
 公然とアルコールを飲める時が1日だけあった。メーデーの日である。1人当り200CCだったか、買いに行って、良いと許可が出た。5千人の収容人員であったから1000リットル。ビール工場から重いビア樽を運ぶのに難儀したが、とにかく晴れて飲めるビールは、何よりもうまかったし、酔ってメーデーのデモの真似ごとをやった覚えがある。その時は、ビール工場の現場のじいさんに鼻薬をかかせてビア樽1本を余計に運び出したと記憶している。
 鏡に怨みは数々ござる、というセリフがあるが、酒の怨みも深いものだなぁとふと思うことがある。
 
 


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