back 理事長 相沢英之 のメッセージ
       「地声寸言」
  2011.04.19リリース

第九十四回 <『すし』の話>
 私はすしが好きである。家内は言う、あなたは毎日々々一週間でもすしでいい人。たしかに当っていなくもない。
 子供の頃は別として、自分ですしを食べるようになったのは高等学校へ入ったころからである。当時一高は渋谷から歩いて三十分、帝都線の駒場一高前駅の北側にあった。本郷弥生が丘の土地を農学部と交換して移って来てから三年目に私達が入学した。
 全寮制の寮の夕食後、私達は屡々渋谷へ出かけた。行きも帰りも歩き、帰りは少し酔って放歌高吟で、近所の家は迷惑をしていたのかも知れないが、世の中がおおらかであったのか、寮歌を唱ってとがめられたことは一度もなかった。
 飲むのは駅前の本郷から学校について来たという呑気にもよく行ったが、渋谷道玄坂の右手百軒店が多かった。お店(たな)と称して安いウィスキーや酒を飲ませてくれる店が百軒もあった。
 その道玄坂の昇り口、帝都線の駅近くに立ち喰いすしの店があった。文字通り立ち喰いでギューギュー詰めみたいに込み合って立ちすしを注文し、食べるのであった。初めはなかなか人の背中の後あたりから声を出してすしを注文するのが出来なくて、とぎれとぎれになったりしたが、やがて馴れて来て人並みに注文が出来るようになった。一貫何でも三銭であった。
 さて、勘定というとパッと答がハネ返ってくる。よくまァ勘定ができると驚いたものだが、一貫三銭かける食べた個数とおおむね正確であった。どうして沢山立っている人が何ヶ食べたか計算できるのか、不思議に思っていたが、物の本で、すしを握る職人は食べた数だけ飯粒を飯台の縁に指で並べておくのだ、ということであった。
 今と違って、トロでも赤身でも、いかでもたこでもウニでも、何でもかんでも一貫三銭であるから計算は楽であったのかもしれない。
 新宿に一貫二銭の店があると人から聞いて、二、三人でつれだって歩いて新宿へ行ったことがある。屋台であって、たしかに一貫二銭であって、味も大して変わらないので、何だか得したような気もしたが、何せ歩いて新宿まで行くのは若いわれわれにしても少々脚の負担であったので、そう何回も出かけなかった。
 昭和十三年の二月十五日地下鉄の新宿渋谷間が完成して、われわれは銀座に出やすくなった。
 柳がネオンに映えて、二十歳前のわれわれは廊下トンビをするようにアルコールを求めて銀座の夜を彷徨していた。
 ニュートーキョーの別館が出来て、本館が大ジョッキ一杯二〇銭なのに、別館ではドイツはミュンヘンから持って来たという陶製のシュタインが一杯八〇銭であった。リッター入ったのではなかったか。
 その二〇銭のジョッキで三杯ほど飲んで、おでん屋へ行く。お銚子一本二〇銭か二五銭。おでんをつまんで三、四本空けても一円で済む。それから、テンセン・スタンドでウィスキーを空ける。一杯看板どおり一〇銭である。ジョニ黒でも赤でも、ブラック・アンド・ホワイトでも、ホワイト・ホースでも、何でも彼でも同じ一杯一〇銭であるが、味もみな同じところを見ると、中味はサントリーか何かであったであろう。
 そして、最後は、酒屋へ行って一合枡の端にちょっと塩を載せて、それを嘗めてキュット一杯。酒樽の栓をひねって流れ出るコハク色の酒は冷えて、とどめの一杯にはふさわしかった。
 というようなアルコールの旅の合間に一寸すしをつまむのである。銀座のすしも一貫三〜四銭であったが、一軒お慶ずしというのが一貫一五銭と言われていた。一度だけ友人と二人でのぞいたが、高い高いと聞いていたので、二、三貫で止めて勘定にして貰ったが、職人が変な顔をしていた。余りに少ないのでどうかしたのか、と思ったのかもしれない。値段の割に味は変わらなかった、と思う。
 戦後、役所勤めをするようになって屡々銀座へ出没したが、すし屋は決して安い食物屋ではなかった。しかも、すし屋の勘定と言う言葉が出来たところでもわかるように、勘定の根拠が不明で、昔のようにいわゆる明朗会計ではない。もっとも一貫なんでも三銭という時代と変って、ネタによって高い安いがある上に時価と称する値段があって、払って見なければ勘定がわからないと来ている。
 私は、魚は青いものが好きで、こはだ、いわし、さば、あじ、さより、きすなどが何より。トロは油気が多くて手を出さない。イクラやウニもコレステロールが多そうで、そう食べない。であるからどっちかと言うと安上がりの筈であるが、それが勘定にあらわれないことが多い。
 私のわりとよく行く店は本当に目の子勘定で、何を食べても大体一人一万円で、今夜はちょっと余計食べたな、と思うと一万一千円ぐらい、食べなくても一万円という安定した勘定である。
 ところが、何十年も昔であるが、銀座のある有名なすし屋に友人と二人で入った。友人がおごるという約束であったし遠慮はしなかったが、泳いでいるヒラメをおろして貰って食べさして勘定となったら七万何千円だと言う。何が何でもそんな勘定はないと思ったので、文句を言うと、ヒラメを一匹おろしたので、その分が入っているのだ、という。握られた分はほんの一部なのに丸々一匹分とはおかしいと言うと、生きているのを一匹おろしたのだから、と同じ返事で、まァしょうがないなと友人がしぶしぶ支払った。もう二度とあの店へは行かないというのが、おちであったが、そういう店もあったのである。
 米をシャリと言うのはすし職人が言い始めたということになっているが、昔どこかで聞いて今でも覚えていることは、かつて北海道は網走の監獄で囚人がいうようになったということであるが、本当かどうかはよくわからない。戦後、戦中の食糧難からやっと解放されかけた都会の人々が白米を銀シャリといって涙を流さんばかりに大切にしてからシャリという言葉が一般化したようにも思うが、どうであろうか。
 すしは何と言ってもシャリとネタである。シャリは言うまでもなく米である。その語源は日本国語大辞典によれば次のとおりである。
 しゃり【舎利】一[名](梵 sariraの音訳。身体、身骨、遺身などと訳す)@仏語。遺骨。普通、聖者の遺骨、特に、仏陀の遺骨をいう。仏舎利。さり。A(略)B(形が@に似ていることから)米粒。米。また、白飯。(略)【語誌】(@について)(1)@は小豆大くらいの粒状で、槌をもってしても破砕できないとされている。仏陀の死後、アショカ王によって分配されて各地に伝わったとされ、舎利塔に安置して信仰の対象とされた。ただし実際には、宝石類や真珠などが用いられたらしい。日本にも鑑真が三千粒将来したとされ、空海は八十粒感得したという。唐招提寺、東寺、延暦寺、法隆寺などでは、仏舎利を供養する法会すなわち舎利会が年例となっている。(2)Bの意は、仏舎利が米粒に似ていることによっており、近世から例が見え始める。(略)
 すしの談義をするつもりはないから、ここはこれくらいにしておくが、もう少しつけ加えておく。
 すしはもともと魚介類を塩蔵して自然発酵させてもので発行を早めるために飯を加えた馴鮨(なれずし)と酢飯に魚介類などの具を配した早鮨(はやずし)、一夜鮨(いちやずし)、散らし鮨、蒸鮨、握鮨のほか海苔で巻いた巻鮨や油揚で包んだ稲荷(いなり)鮨などがある。(同上辞典)
 いずれにしても飯(米)と魚介類の組み合わせが主体であって、何よりもうまい米をうまく炊き上げ、うまく握ってくれなければ、現代のうまいすしは出来上らない。
 長い人生、好きなすしを日本中で食べたような気がするし、どこでもおいしいすしに出会ったので、今どこがうまいとか何とか言いたくはないが、記憶に残る二、三を挙げてみれば、北海道は函館、岩内のすし屋、築地市場の中のすし屋などである。
 築地の市場へは、戦前川崎溝口の歩兵連隊の主計将校をしている時、屡々朝の三時頃から炊事の下士官などを載せたトラックで部隊の魚を買いに出動し、セリが終って、買付けが済んだ後、市場の中のすし屋で熱い一杯を傾けながらつまんだ鮨の味は今でも思い出すと生唾が出てくるくらいである。あの炊事の連中とは私が北京の方面軍司令部へ転属したのが別れとなったが、今頃どうしているのかなァとふと思う事がある。ニューギニアのマノクァリに駐屯していた第八方面軍の貨物廠に転属する部隊の出発前の準備をしていたと記憶している。
 すしと言えば、義経千本桜の三段目の切、鮓屋として出てくる奈良県下市の弥助ずしで五十年も前のことだが、ゆかりの鮨を食べたことがあった。
 そう言えば、ついこの間亡くなった杵島隆君が「義経千本桜」という三巻からなるぶ厚い写真集を出して、是非これを海外から来る賓客に日本の記念の手土産に贈呈して貰いたいというので外務省に紹介したことを思い出す。
 そう言えば、志賀直哉の「小僧の神様」を思い出す。神田の秤屋(はかりや)の小僧仙台が電車賃四銭を倹約して店の番頭仲間がうわさをしている京橋の鮨屋の屋台の店で鮨一ヶを注文するが六銭と聞かされて、一旦手にとったのを置いて出るところから話が始まる。白樺派の彼の名作のひとつである。
 今や、日本の鮨は「スシ」で通じる程世界中に有名になった。二十年以上も前であったが、ロス・アンジェルスのスシ屋でカリフォルニア・ロールとか言う海苔と飯がさかさまとなっている妙なスシに閉口した頃はまだそれ程でもなかったか、と思うが、三年程前ロンドンで鮨を食べたいと思ったら、有名なある店は予約で一杯で八時半ならと言う。腹をすかして行ってみれば、百人も入るかと思う店は満席、十時の予約もあると言われていた。嘘か本当かロンドンに鮨屋が三百軒あるという。とにかく日本食はブームみたいになっていた。値段も決して安くはなく、日本の普通の店ならせいぜい二千円ぐらいの鮨のセットが四千円もしていたが、若い人がおいしそうに食べていた。そう言えば、一昨年行ったモスクワでさえ日本食は大へんにもてているという話であった。
 結構な話である。が、世界中に何万店にもなっている日本食の店の職人はもとより、経営者も外国人が多い、というより大部分であるという。
 そこでとんでもない鮨を提供されて、これが日本の料理です、といわれては叶わないように思うが、さて、これを止める方法もないのではないか。食の日本、文化の日本と言う名がさらに広まれば、もって瞑すべしとするか。読者諸賢如何に。
 
 「付」 ここで「日本語源大辞典」(小学館)からすしの語源説を引用してみる。
 鮨・鮓・寿司
 語源説
 @ スン(酸)の義(和句解・日本釈明・大源箔)。スは酢、シは詞助(東雅)。
 A スンミ(酢染)の義(名言通)。
 B スウキ味で、口に入れるとスッとするところから。(本朝辞源=宇田甘冥)
 C 石を重りにおくところから、スはヲス、シは石の義(和句解)。
    (略)
 「参考」 鮨と鮓は同義に用いられる可能性があるが、飯の中に魚介類を入れて付けるのが鮓で、魚介類の中に飯を詰めて漬けるのが鮨であるとも言われている。寿司という表記は演技を担いだ当て字と考えられ、近代以降のものであるという。
 
 


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