back 理事長 相沢英之 のメッセージ
       「地声寸言」
  2011.04.19リリース

第九十六回 <戦争>
 私は、物心がついて、中学生の頃から将来軍人と医者にはなりたくないと思っていた。軍人になりたくないというのは、戦争で人間同志戦って、殺し合いをするようなことはしたくなかったからであるが、何故医者になりたくなかったのかは、どうもハッキリはしない。しかし、強いて考えれば、やはり人間の生き死にに直接かかわる仕事はしたくなかったからではなかったか。
 その私は、運命のめぐり合わせとは言え、召集を受けて兵隊になり、幹部候補生になり、主計の将校となって日中戦争に従軍し、あまつさえ戦後三年間のソ連抑留を経験することになったのである。全く願っていないことが実現してしまったのである。
 私は、運命論者ではないが、戦争の体験からつくづく運命というものを思わない訳にはいかなくなった。もうちょっとのところで死ぬという体験を繰り返していると嫌でも運命の在り方を思わないではいられなかった。
 私は亡くなった家内と会った時、私は十七才で彼女は十三才ぐらいであった。中学の親友の従妹であったということで初めて会った時、何というか、一眼ぼれで、それからいろいろ経緯はあったにしても、大学を卒業し、軍隊に召集を受け、経理の見習士官となって婚約するに至ったのは、一つの運命ではなかったか。
 その私が、昭和十九年に全く偶然に婚約者の住んでいる北京へ転任になることになった。全くの偶然としか言いようがなかったし、私は、天の配剤と驚ろくとともに心から感謝をしたものである。天にも昇る気持がした。
 ところが、好事魔多しとは、よく言ったもので、その北京の方面軍司令部での勤務は僅か一ヶ月余りで、南京へ、次いで漢口へ、そこから又電気もつかない旅団司令部のある咸寧へと転任を命じられたのである。菅原道実の太宰府落ちを思い起すような天の仕打ちを、今度は散々怨んだものである。
 支那大陸を占領しているとはいえ、武漢方面は良く言われたように日本軍はポイント・アンド・ラインしか抑えてはなく、それすら国府軍や共産軍のゲリラ作戦に絶えず脅かされていた。制空権は夙に米軍に奪われていて、われわれは敵機の空襲には赤子の手を捻ねられるような一方的な取扱いを受けていた。空襲によって何べんも間一髪死に損うような目に遭った。かすり傷ぐらいで助かったので、まだ自分には運があると思っていた。
 第三十四軍司令部が北満に転進を命じられた時、私の属していた経理部調弁科は科長以下全員、物資調達業務の継続のため漢口の第六方面軍に所属換えすることになっていたが、私一人は希望して司令部の本隊の中に加えて貰ったのも、部隊の北上の途上、北京を通過する、その時一目でも許婚者に会える機会があるか、と思ったからであった。昭和二十年の正月にはフィリッピンも陥落して戦況は日ましに悪くなっていたので、今生の別れをしたいと思ったからである。
 首尾よく会えたのは良かったが、軍司令部は北満ではなく北鮮の咸興へ移職し、間もなく迎えた終戦の後、不法に侵入して来たソ連軍に抑留され、タタァル自治共和国のエラブガに送られ、三年にも及び抑留生活を味わうことになった。
 あの時、私が司令部本体に加わることを要望しなければ、残留した調弁科の仲間の将校と一緒に二十年か、遅くとも二十一年には日本へ帰っていた筈であった。くぢを引き違ったような目に遭ったのだが、これも運命だったのかも知れぬ。
 しかも、ソ連抑留中に仲間のいるラーゲルから引き離されて調査のため病院に押し込められ、さらに戦犯容疑でカザンの監獄の独房で四ヶ月も暮らす羽目に陥ったのである。漢口の軍司令部時代の活動についての容疑取調という理由であることは軈てわかったが、それも一緒にいたドイツ将校の捕虜の一人からの讒訴であったことは後でわかったことである。その彼はどうも党員となってひそかにスパイ活動をしていたのである。
 私が、何でそんな眼に遭わなければならないのか、これも運命の一かけらであったのだろうか。
 私ども一高の学生も東大の学生も戦争に対しては批判的であった。軈て有無を言わさず兵役につかなければならず、それは生命の危険にさらされる、という意味からだけではなく、一体何のための戦争であるかという疑問、そしてとても勝てそうにもない米国を相手に戦うことに対する懸念など複雑なものが原因であったと思うが、とに角、ごく一部の学生を除いてはかなりいわゆる大東亜戦に関しては大きな疑問を懐いていた。
 それではわれわれは反戦的な行動をとったか、と言うと、それは違った。戦争が始められたからには、祖国のために銃を執って戦う気持は決して本職の軍人にも劣るものではなかったと思う。むしろ、昇進などは一切考えないで、誠心誠意、力を盡して戦ったのが学徒出陣の将校ではなかったろうか。
 とかく第一線に出たがらない陸士、陸大出の将校を見て来たし、ことに終戦となるやいち早く保身の行動に走り、物資を国内の身内に送る道ばかり考えている将校の姿を見ているだけに、正直言って本当に白ける思いであった。敗戦となれば階級の高いものほど手痛い目に遭わされるのではないか、という懸念から何かと逃げ隠れしたがる上級将校の姿もしっかりと見て来た。
 戦争は嫌なものである。そして日本の軍隊は第一次大戦後における戦争の態容の変化に充分対応しうる組織、軍備などの再編を怠たっていたことをまざまざと知らされた。
 陸海空という昔の序列のまゝの軍の在り方は、少なくともノモンハンの戦で反省に目覚めていなければならなかったのではないか。
 支那にいて制空権を喪っている軍隊の惨めさを痛感したが、連合艦隊が敢えなく潰滅したのも制空権を奪われていたためではなかったか。徒らに大艦巨砲主義に固執していたのは正に時代遅れではなかったか。
 二十年に入って内地から続々として支那に送られて来た新編部隊の姿を見た時、これが戦闘に耐える兵隊かと思わざるをえなかった。二十代の若者のかわりに三十代、四十代の兵隊が多かったということはまだしも、軍服は着ているが、腰に下げている牛蒡剣は中身はともかく鞘は竹に針金を捲きつけたものであり、飯盒はアルミニュームが欠乏しているためか、竹で編んだ割籠である。それだけならまだいいとして、肝心な銃は十人に一丁、しかもそれは日露戦争に使った三八式歩兵銃で、既に廃銃として菊の御紋章も潰して中学校などに軍事訓練用として渡していたものを回収して使っているのであった。武器もろくに持たない、訓練も出来ていない兵隊を何のために戦地に送って来るのか。敵機が来襲しても茫然として空を見上げているような兵隊を可愛相に思うよりも、むざむざ殺すために兵隊を戦地に送って来る軍の在り方に怒りを覚えざるをえなかった。
 戦地だけの悲劇ではない。米軍機や米艦隊の無差別爆撃、砲撃にさらされ、最后は広島、長崎の原爆投下で無辜の民の生命を喪わざるをえなかった銃後は、とても銃後とは言えぬ、武器を持たないだけに、戦う手段を持たないだけに、ある意味では戦地よりも悲しい苦しみを味わなければならなかった、と思う。
 また、私が内地にいた頃、母がその辺の町の国防婦人会の会長として竹槍訓練の先頭に立ち、又、焼夷弾から身を守る訓練として頭から冷たい水を何杯もかぶり、竹箒みたいな棒でその辺を叩いている姿を見た時、涙が零れる思いであった。
 家は横浜にあったため、米軍の大空襲であっという間に一物も残さず焼失をした。隣りの家との間隔があったため、近所に焼夷弾が落ちてもまず大丈夫という計算であったようだが、弾はわが家を直撃して、三十年かかってやっと建てた家が焼失し、隣り近所の家は焼けなかった、という報告は、戦地にいる息子には知らせまいという思んばかりから、私は、終戦後三年経ってソ連から引き揚げるまでよく知らされていなかったのである。
 戦争に伴なう苦しみは、近代戦では前線や銃後もない。もう、こういう戦争は二度と繰り返して貰いたくない。
 平成十三年、私が衆議院議員在職二十五年で永年勤続者として表彰を受けたが、年長の故をもって同僚十数名を代表して本会議場で答辞を読んだ際、子々孫々にいたるまで二度とこのような戦争に遭わないようにしなければならない、と読んだところでかなり大きな拍手があったが、続いて、しかし、若し戦争となったら絶対に負けてはならない、という言葉を述べたら、自民党席からは拍手だったが、野党席からはブーイングであった。
 何故野党席からブーイングなのか、私は、わからなかった。戦争の災禍を知っている人は充分わかってくれるのではないか。
 もっとも、昭和五十年代の終り頃、自民党の議員をしていた私は、社会党の書記長とテレビで対談した際、彼等の言う非武装中立論をめぐって論争となったが、彼は、こちらが武器を持たなければ、占領されても殺傷されるようなことはない、と発言したことを未だに覚えている。浮世離れした考え方は、流石、その後は見当らなくなったと思うが、そういう考え方の人があった、ということは事実なのである。
 自衛隊は未だに軍隊ではない。しかし、外国ではおおむね軍隊と見ている。およそ軍隊のない独立国などは存在しないと思うと同時に、近代戦を戦える軍の編成、装備、訓練を是非願いたいと思っている。
 
 


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