back 理事長 相沢英之 のメッセージ
       「地声寸言」
  2011.05.19リリース

第百回 <タバコの害>
 タバコを吸い始めたのは中学を卒業して一高(旧制)に入った頃からである。二十歳には満たなかったが、何か高校に入れば、許されると言うより、当り前のように思っていた。事実、同級生も一浪、二浪はザラにいて、二十才を越えている生徒も少なくなかったせいでもあった。中には予備校で教えていた生徒と一緒に入って来た八浪の生徒もいた。
 一日せいぜい一〇本ぐらいであったが、入ったところが陸上競技部という伝統的に規律のやかましい部屋で、禁酒、禁煙が建前であった。私は、むろん酒も始めていた。ことにどうした訳か、入学当初酷い不眠症にかかり、睡眠薬を始め、アダリン、カルモチン、ドルミンなどいろいろな薬を飲んでも眠れない。あれはドンドン量が増えて行くものであって、最後は致死量に近い量を飲むようになり、このままではダメになると思って転換に酒を飲んだら、おかしいことに一発で眠られるようになった。
 そういう次第で酒とタバコは離せないようになる、上級生からは運動には差し支えるから止めよと言われる。
 そこで、悩んだ挙句、運動部を仲間数人と語らって飛び出すことになった。理由は、運動は健康のためにするので、勝負のためではない。競技本意で一日三〜四時間も練習に時間を潰すような運動部は廃止すべきである、運動部解体論をひっさげ、寄宿寮の総代会で同志と語らって、猛烈なアジ演説をぶったりした。しかし、運動部はなくなるようなことはなく、われわれは一般部屋や組選部屋でゴロゴロするようなことになったのである。ちなみに組選部屋とは、クラス対抗のボート、野球、弓などの試合をする、その生徒たちの入っている部屋で一般部屋(運動部の部屋でない部屋)と実質は違いはなかった。
 寮の生活は完全に生徒の自治であったが、タバコや酒は当り前であって、次第に量は増えて、毎晩のように酒を飲みに出撃していたが、タバコは手から離したことはなく、だんだんヘビー・スモーカーになって行った。ピースの五十本入りのカンは蓋を開けた時の香りがよくて、部屋の誰かが開くたびに壁の桟に並べていたのを思い出す。誰だったろう。その頃はタバコを吸わない人が少なかった。
 寮の寝室でも寝たばこをしたし、十二時過ぎると消灯となるが、そのあとはローソクで本を読むローベンとなる。ここでもタバコは離さず、時々、熱い灰を首などに落としたりした。布団の襟を焼いた人も時々あった。
 大学は横浜から電車通学。駅で一服するのも楽しみであった。
 軍隊に入った時は初年兵。訓練の休憩はタバコ。この頃はもっぱらバットを吸っていた。一番安いヤツであった。
 そうだ思い出した。子供の頃、タバコの空き箱を道で拾っては集めていた。バットの箱を切り抜くと同じ模様がそろうので、トランプまがいのものを作ったり、銀紙を集めた丸い球を作り、それを融かした錫(鉛も入っていた)を型に入れて、模型のヨットのキールにしたりしたことがあった。
 軍隊の休憩はタバコを吸うことと一緒であった。
 タバコは敷島のような口付は殆ど吸わず、もっぱら両切りであった。
 支那へ行ってからは、あちらの煙草であったが、スリー・キャッスル、スリー・タワーズ、グランド・チェンメン、ハーターメン、双魚、武勝門など種類は多かった。
 煙草は配給もあった。町中の価格よりも遥かに安かったから、インフレの進行している市内でラーメン一杯も月給ではまゝならなかったので、兵隊達は酒保で仕入れたタバコを売っていろいろなものを買っていたようだった。
 私も酒保で五万本も入る煙草の大箱を買った。十本入りの箱が五〇ケ入って一包、それが百も入っている木箱で、毎日百本以上吸っていたが、流石同じタバコ(多分安い武勝門だった)に飽きて、兵隊にやったりした。
 タバコを止めようと学生の頃は何度も思って、友達と禁煙を誓い合い、池の水に高いライターや飲みかけのタバコの箱を投げ入れたこともあったが、どうしてもタバコが復活して長続きはしなかった。
 第三十四軍司令部が中支の漢口から北鮮の咸鏡南道咸興に移駐して間もなく終戦。ソ連軍との約束に反してもとの小学校に収容されることになった。困るだろうと思って一升ビン二本の酒と一緒に五〇〇本入りのタバコを二包持ちこんだのはいいとして、ソ連兵の検査に遭い、みんな没収されたのは甚だ残念であった。
 ダモイ東京と騙されて、ポシエットに上陸。クラスキーノで一ヶ月のテント生活の後、シベリア鉄道二十三日間の長旅。キズネル駅で下車。四日間の雪中行軍後でエラブガのラーゲル。手持ちのタバコは全くなく、配給のマホロカという木屑のようなタバコの配給。ソ連の兵隊は新聞紙の切れ端でぐるっと捲いてちょっと舌でなめて紙筒にして吸う。その真似はなかなかできなかったが、コンサイスの字引きの紙が一番タバコに向いていることがわかった。ライスペーパーのようであった。
 ラーゲルに入ってから、ノルマとして将校は一人一日十五本、兵隊は一〇本の配給があった。初めはマホロか、そのうちちゃんとしたタバコ(ベルモール・カナルとか、何とかいう。口付きが主であった)が割合きちんと配給になった。
 もちろんタバコを喫わない人もいる。パンや何かの交換に出すようになったのは、間もなくであった。麻雀の点棒の代りにもなったので、麻雀の強い人はタバコには不自由しなかった。
 ソ連の収容所の監督役の将校にジュックという中尉がいて、何かにつけてやかましいことを言う男で嫌われていたが、私(給与主任)には丁寧で、ガスパジン・アイザワとちゃんと敬称で呼んでくれたが、タバコの配給の後、必ずといってもいいように私の所に来て(連隊本部)、ブマーギと言ってタバコの丈夫な包装紙を取りに来るのであった。何にするのか、わからなかったが、その紙は厚くて、壁新聞などにもよく利用した。
 殆どが将校だったので、一人十五本というと五千人もいた収容所で一〇日目ごとの配給量は約七五万本、五万本入りの木箱にして一五箱。スクラアド(倉庫)から積み出すのだが、慣れてくると一箱ぐらい多くちょろまかしても気付かない、その辺りは日本人を信用しているのだろうか、そうして浮いたタバコはラーゲルの催物などに使ったりした。
 エラブカの生活も早く帰れた人は二年、私どもは三年であったが、昭和二十三年八月十四日舞鶴に上陸し、祖国の土を踏んだ時は本当に嬉しかった。
 軈て大蔵省に復職したが、タバコは専売物資。専売局は外局であった。
 相変わらずタバコは止めず、ますます数は多くなって行った。
 予算の仕事をしていると、ついタバコが離せなくなる。不思議と私は指をヤニで黄色くするようなことはない。ピースからホープなど、両切りばかり喫んでいた。
 紙が発がん性があるというので、パイプに切り替えたこともある。スリー・ファイブ、ダンヒルなどいくつものブライヤーのパイプを買い、ヤニが滲みて、いい色になるのを楽しんだり、海泡石のパイプも買ったし、ライターもジィッポーはもとより、ダンヒルも色をかえて幾つか。結構投資したつもりだった。葉も菊水に買いに行って、ブランディやウィスキーがいいと言ってふりかけたり。駿河屋の社長がマイ・ミクスチャーといって香のよいのを一カン届けてくれたり、なかなか楽しみであった。
 無論、金輪際、止めようと思ったこともあったが、なかなか続かなく、今後は、予算が忙しくなると止めて、自分は禁煙家だと人に吹聴したりした。
 しかし、遂に本当に止める時が来た。
 予算の詰めの一週間か十日間は、だんだん疲れて固形物が喉を通らなくなる。流動物として一日当り玉子が六ケ、牛乳が六本、酒が六合を飲んだ頃のこと。主計局次長であった。
 予算を打ち上げてやれ嬉しヤと、酒を飲むわ、タバコをふかすわ、という状態で、さあタバコは百二、三十本は飲んでいただろうか。
 丁度、帰途、表参道をタクシーで走っている時に倒れた。心房細動で瀕脈であった。救急車で病院にかけつけ、医師の顔をみたら心臓はおさまったが、医者が呆れて、酒もタバコも減らせという。減らすのは何回も試み失敗したから、一そ、タバコを止めます。酒は百薬の長ともいうが、タバコは百害あって一利なしと言うから。
 それで、キッパリ、タバコを止めた。タバコを止める秘訣として、次のことを守ったら良い、と人に言うことにしている。
 一つ、止めることを人に言わぬ。
  人に言うと、その人のいないところ吸うようになったり、隠れて吸ったりする。
 一つ、何か記念日とか何とかの日からではなく、思い立ったが吉日、すぐ翌日から止める。
 一つ、最も大事なことは、之で一生止めるのではなく、又、気が向いたら吸う、ということにする。もう吸わないと誓うと、淋しくなり、却ってストレスが溜るからダメ。
 だから、私は、ライターやパイプなどタバコの道具をそのまま大事に収ってある。
 それが昭和四十三年の正月。それから四十数年、一本もタバコを吸わない。
 この間、病院で調べて貰ったら、肺の中はやはり痕跡があると気管支鏡で発見され、脳内にも影響が残っているという。
 だから、タバコを止めるなら一日も早い方がよいと言える。
 タバコは正に百害あって一利なし。止めた方が良い。
 
 


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