back 理事長 相沢英之 のメッセージ
       「地声寸言」
  2011.05.19リリース

第百一回 <映画>
 町の原っぱに丸太を組み白布を掲げたスクリーンで近所の人達と見た無声映画が映画の見初めであった。昭和の三、四年の頃である。無論弁士つきの映画であった。それから音楽だけが声の出るサウンド版からオールトーキーとなり、色がついて、軈てオールトーキーとなって見たのが昭和六年頃であったろうか。
 松竹蒲田の時代で「若き日の感激」などが印象に残っている。川崎弘子の顔を子供心に美しいと思っていた。
 横浜の盛り場伊勢崎町のいくつもあった映画館では市川右太衛門、市川百々之助、阪東妻三郎(バンツマ)、尾上松之助(メダマのマッチャン)、月形竜之助などのチャンバラものの髏キ時代であったが、尾上町五丁目の角にオデオン座があって、そこは洋画専門であった。当時は航空便のない時代であって、全盛期のハリウッド映画はロスアンジェルスから船で横浜に着き、そこで日本で一番最初に封切られたのである。だから、映画の好きな東京人はオデオン座で映画を見て、南京町(中華街を当時はそう呼んでいた)で支那飯(南京料理ともチャン料理とも呼んでいた)を食べるのが通とされていた。
 その頃は生徒の風紀点検のために監視員(?) が盛り場を歩いていた。生徒が保護者の同伴なしに映画を見ることは禁じられていて、見つかったら有無を言わせず学校に通報され、しかるべき処分を受けることになっていた。
 私どもは群をなさず単独行動で学帽を懐に隠して映画館に入ることにしていた。
 オデオン座で初めて独りで観た映画はマレーネ・ディートリッヒの「間牒X27号」であった。彼女は百万ドルの脚といわれていたが、眼ばかり光った黒いマスクの下に微笑む彼女の美しい唇が眼に焼きついて、映画館を出ても、さあ文字どおり晝は幻、夜は夢となって、忘れもしない、一週間近くも眼の先にチラついていた。
 さあ、それからは映画に魅せられる如く、毎週のようにオデオン座に通うようになった。「間牒X27号」のあとはモーリス・シュバリエの「坊やはお休み」、「シュバリエの流行児」などが続いていた。ともかく、小遣銭の続く限り通ったと思っている。オデオン座に入場する時に二ページぐらいのプログラムをくれたが、英文と和文のいずれでも選べるようになっていた。勉強のためと称して、いつも英文のものを貰っていたが、中学生にも直ぐ見つかるような誤りの多いものであった。オールトーキーであったが、日本語の吹き替えはまだ始まっていなくて、画面の下か脇に日本語の字幕が出ていたので、声を聞きながら字幕を読んで勉強になると秘かに喜んでいた。
 今回「監名会」で三浦朱門さんと映画について対談することになっているが、題して「わが青春時代」として「巴里の屋根の下」を見ての会話となっている。この映画は昭和五年に作られたので、私が見たのは七、八年経ってからである。ルネ・フレールの、いかにもパリの下町での物語らしい作品であった。
 萬葉の学者として有名になり、文化功労者にも列せられた犬養孝氏は東大の国文を出て始めて先生として赴任した横浜第一中学校で私は国語を教わったが、ある時授業中の雑談で話が映画のこと、そしてこの「巴里の屋根の下」のことに及んだのを、覚えていた。
 一高に入って文甲で、英語・独語の授業が多かったが、フランス語を勉強しようとアテネ・フランセの夜学へ通うようになったのも、この「巴里の屋根の下」や「巴里祭」などの主題歌を原語で唱いたかったことも原因であった。「チボー家の人々」の訳者としても有名な山内義雄先生の担任であった。ディレクト・メソッドというのか、一度は日本語で教えるが、あとはフランス語だけを遣うという教え方であったので、一ぺんでも休むとなかなか授業がわかり難くなる上に遠慮なくあてるために休むとへどもどしたが、七〇人余りの一教室の大部分が学究心に富む女性達で、その前で、数少ない男子生徒として醜態を見せるのが羞しかった、ことなどがあって短期間で止めたのは、今思うと残念であった。
 それはともかくとして、苛烈な受験勉強期を経て一高に入学した私たちにとって学校の授業など大したことはないように思えたし、東大も普通に行けば大体入れると思っていたので、丘の三年間は本当に自由に本を読み、、芝居や映画を見て過していた。
 当時、われわれは中学生時代と違ってヨーロッパの、それもフランスやドイツの映画に溺れていた。
 溝口健二の「残菊物語」など二度、三度と観に行く日本映画もあったけれど、熱心に通ったのはやはりフランスやドイツの映画であった。
 それらについての思い出は稿を改めて綴ることにするが、昭和五十年初めてヨーロッパに出張した時、ロンドンの大使館が一日催した舟遊びで、マーローへ行くテームズ河の船上で西大使夫人に紹介されて川喜多かしこさんにお会いした。川喜多夫妻の東和映画(トービス)が輸入していたフランスものの映画について思い出話をしたことを今でも忘れないでいる。もう四十年も昔のこととなった。往時茫々と言おうか。
 
 


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