back 理事長 相沢英之 のメッセージ
       「地声寸言」
  2011.05.30リリース

第百二回 <角福時代あれこれ>
 長い議員生活の間にはいろいろなことがあった。時系列的に記す折もあると思うし、是非書いて置きたいとも思うが、ここでは特に記しておきたいことを書いておく。
 一つは派閥の問題である。よく世間では相沢は田中派にいたのではないか、それがロッキード事件があったから田中から離れたのではないか、と言われる。
 が、それは正しくはない。第一、私は田中派に入ったことはない。田中氏が郵政大臣になってからだと思うが、佐藤大蔵大臣の時、昭和三十五年度の予算編成の際であると思うが、大臣折衝の際に恰も大臣の代理でもあるかの如き振舞をしたことから問題が起きた。彼は土建屋出身であったから、建設省予算の大臣折衝の時に顔を出して、取り纏めをしたことはまだ許せるとしても、十二月三十日の農林大臣との折衝の場にも顔を出して、いろいろ佐藤大臣本人の眼の前で大臣が代理であるかと思わせるような仕切り方をしたのは、一体どういうわけか。と大臣折衝に立ち合っていた党の船田政調会長、山中副会長あたりが問題とし、そんな大臣折衝は認められない、党は立ちあえないと騒ぎ出し、大晦日の大臣折衝が流れて、正月に持ち越しとなってしまった。その時は田中氏の印象は正直言って余りいいものではなかった。私は農林担当の主計官、農林大臣は福田赳夫氏であった。福田大臣は三十一日大晦日の夕方電話をかけてきて、之から飯を食おうという。
 さあそれからがたいへんだったのは福田大臣の秘書官であって、あちこちに電話をするけれど開いている店はない。やっと本郷の江知勝が開いていた。同じ一高の先輩、後輩として懐しい店で夕食をとったあと、大臣は自分の親しい店が新宿にあるから、一寸二次会に行こうという。激しい雨の夜を車で向った店はキャバレーで、すっかり御機嫌の大臣は若い子をつかまえてダンスを始める。昔ロンドン大使館で財務書記をしていた時、取った杵柄、とか。
 福田氏は若い頃、京都は下京の税務署長をしていて、その頃のことを懐しく、君入江たか子を知っているかな、と言って、太秦の撮影所の女優さん方との交流を自慢そうに話をしたりしていた。税務署長も一緒のところということもあって余計贔屓にしてくれたのではないか、と思う。
 次は田中氏が大蔵大臣になって来た時で、私は主計局の総務課長をしていた。田中氏が乗り込んで来たら何をされるか、大へんなことになるのではないか、という警戒警報みたいなものが省内走ったことは事実であるが、彼もその辺は充分心得ていたものと思う。彼はそもそも役人、特に大蔵省の役人を大事にするような思いがあるのか、われわれの言うことはおおむね耳を傾ける風であった。書類もしっかり読んでいたようであるが、いかにも勉強しているという恰好に見えることは嫌なようであって、後で聞いたところでは、書類は必ず自宅へ持って帰って目を通していた、という。しかも、夜中の三時、四時に眼を覚して隅から隅まで読むという習慣で、われわれに対しては、俺はよく知っているのだという態度をとっていた。彼は、よく学校は義務教育が大事だ、義務教育をちゃんとやっていればいいのだ、ということを口にしていたが、それは一つには高等小学校と各種学校の工手学校しか出ていない、自分の経歴についてのコンプレックスの裏返しではなかったか。
 それだけに、秘かに勉強して対等にやり合いたいという意識があったのではないか。自から、年令から言って、俺は大蔵省で言えば鳩山や塩崎の昭和十六年組に当るからと言って、十六年組の準会員というような形で同期会に参加していた。
 大蔵省に限らないが各省の役人にとって良い大臣とは、余り細かいことに口を出さず、役人の言うことは相手を抑えつけても通してくれる人なので、その点、彼は大へん頼り甲斐のある人であった。
 彼はコンピューター付きのブルドーザーと評されたように、数字に明るく、計算に早かったから、予算編成に際しても何時も自分で胸算用をしているようなところがあった。
 ある時、あれは佐藤主計局長の時であったが、当初内示後、復活は予備費に積んでおいた額から取り崩すことにしていたが、実際は相当残っていた。そのまま出すと大き過ぎるし、と言って前年度同額では一寸困るし、前年度よりちょっと(二〇〇億円ぐらいと思う)ふやした額にして閣議に出そうと、佐藤局長と話し合って決めた表を田中大臣に見せたら、アッという声で、アレ、こんなに残っているのかと言った。彼のめのこ勘定では、多分前年度なみまで使い切っていると思っていたらしかったのか、違ったのである。そこは、そのままで良かったが、あとで聞いたところでは、田中氏は秘書官に主計局は大臣まで騙すのか、と言って、大へん不機嫌だったという。
 次に田中氏との関係は、彼が幹事長の時で、高木主税局長とともに呼ばれ、自動車重量税の創設を言われた時である。自動車はその重量の度合いによって道路を損傷する、従って重量に応じて道路費負担として税金をとる、という彼のいはばトン税構想であった。私も高木もその趣旨には強いて反対しなかったが、問題はそのための特別会計をつくり、収入の八割を道路に、二割を国鉄にという目的税としての形式であった。
 当時、特別会計は既に五十有余存在して、その整理が課題となっていることもあって、この目的税構想には強く反対し、一般財源として徴収するか、その使用途については彼の主張するようにすることを所管大臣として大蔵大臣が国会で明らかにする、ということで妥結したのである。
 ついで、日米繊維交渉である。米国側の厳しい要求を処理しかねて宮沢通産大臣がいわば投げ出したあとに田中氏が登場したのである。
 之も、田中大臣の要求に近いヤミ織機、紡機の買い入れ補助を含む財投を含み総額一五〇〇億円の対策費を支出することで米側とも妥結した。糸を売って縄を買うと評された沖縄返還実現のための重要な一環で、もちろん佐藤内閣の時であった。
 その間を通じて彼が最大関心事の一つである鉄道建設公団の予算については、終始実質的な担当者であって、その予算も執行も彼の承認なしには運ばれなかった。一見妙なことであったが、事実が凡てという世界であった。
 田中氏が通産大臣の時、石油資源開発を促進するため、石油開発公団に直接外貨(ドル)を貸しつけることができるように外為会計とは別にいわば第二外為を創設せよ、という指示であった。赤坂の料亭千代新での議論は五時間余りになり、強硬に反対する鳩山事務次官と私主計局長に対し、田中氏は遂に怒声をもって「俺は大蔵省のことは隅から隅まで知っているのだ。どうしても反対なら大蔵省をブッ壊してやる」と睨んだ。しかし、飽くまで抵抗するわれわれの意見に彼も遂に諦めた時は十二時近かった。官房長で今や遅しと待っていた竹内官房長や稲村国金局長などに角さんもやっと納得してくれたと報告をした時には、ワッとばかりの喚声で、よかった、よかったというはしゃぎようであった。今も眼に浮ぶが、皆今はいなくなった。
 次は、田中氏が総理になってからのことであるが、彼が顔面神経痛で暫らく入院していたこともあって、福田大蔵大臣の時はとくにその間の連絡役として頻繁に二人の間を往復をしていた。後藤田官房副長官に次で総理のところに多く呼ばれたリストに上っていた。
 後藤田とともに田中氏に最も近い人物に挙げられるようになったのも、外部から見ればもっともであったが、考え方や即決力に曵かれていた、というのが正解ではなかったか。
 他方福田氏に関しては同窓(一高、東大法、大蔵省、下京税務署長、主計畑一貫)という親しさがあったし、福田氏のひょうひょうとした人柄も好きだったので、折にふれて深沢の自邸を訪ねた。
 もっとも、それは私が政界に出てからであって、大蔵省に在職中ではなかった。
 昭和元禄とか狂乱物価とか様々な名キャッチフレーズを残した福田氏は、根が主計局出身であるだけに予算に関しても締り屋の方で、前進、前進、又前進、いわば膨張方の田中氏の考え方とは対照的であったが、お互いにその存在を認め合っていたことは、田中氏があの激しい角福戦争のあとであるに拘わらず、昭和四十八年十一月愛知大臣が文字通り急逝した後の大蔵大臣を福田氏に頼んだことでもわかると思う。そのへんが二人が大物政治家と言われる所以だと思う。
 それより以前、福田大蔵大臣の頃、私は主計局の法規課長であったが、昭和四十年度補正予算で国債発行により主として歳入減を補てんすることになった。私は、その金額は公共事業費の金額以下であったので、財政法四條に基づく建設公債の発行で行くべきだと主張したが、福田大臣は「あれは、角さんの尻拭いだから」といって頑として赤字公債にすることを固執した。そして翌昭和四十一年度において初めて建設公債を発行することにしたのであった。政治家はこういうことに拘泥するものだな、と感得したのである。
 私が、昭和四十四年九月経済企画庁の官房長で現在の家内葉子と結婚した際、大賛成をしてくれたのが福田大蔵大臣であって、結婚披露宴の時に祝辞をいただいた。その中で大臣は政界へ出るなどは考えないようにといって皆を笑わせていたが、政界進出を期待していると祝辞で述べた田中大臣とは対照的であった。
 翌年の異動で、福田大臣は私を大蔵省の官房長にと考えていたが、同じ予算系が官房長となるのに反対であった村上次官の意見で理財局長となった。その際福田大臣は葉子に次は必ず主計局長にするからな、一寸待ってくれと言ったそうである。
 愛知大蔵大臣が糖尿病でほんの一日余りで亡くなった後、田中総理が後事を福田氏に託したが、その際三つの条件つまり、公共事業費を前年度同額とすること、翌年四月一日から予定されている消費者米価及び国鉄運賃の値上げを半年延ばすこと(もっともこの条件は私との間のこと)のほか、爾今財政金融、こと大蔵省の仕事については福田に全面的に委し一切口を出さないことを田中総理は飲んだのである。であるからには、大蔵行政に極めて関心の深い田中総理としては直接福田大臣にいろいろ言う訳には参らぬ。そこで連絡役が私となったのである。
 ことに顔面神経痛で田中総理が飯田橋の東京逓信病院に入ってからは毎日のように私は呼び出された。
 所得税に関して田中総理は累進派が厳し過ぎるとして勤労所得の基礎控除が最高限度額があったのを改め、青天井に所得の一〇%を控除できることを中心とする総額二兆円の減税をすることを要望し、私は高木主税局長とこれを了承していたのである。ところが、福田大臣は何とか止められないか、と言う。いろいろ往復があったが、ま、角さんがどうしてもと言うなら認めるか、と福田大臣の一言で決った。田中総理は喜んだが、翌年、福田大臣と私が辞めた後、後任者は一〇%を半分の五%に切り下げて了った。
 福田大臣は前に大蔵大臣の時、同郷の故をもってか、T氏を関税局長に据えて不評を買ったのを気にしてか、人事に関しては、次官の人事だけは相談してくれ、あとは君に委すという発言であったから、大へん有難かった。
 ただ後の次官については主計局長の橋口にするか、主税局長の高木にするか、でちょっと有名になった次官争いがあったが、結局高木に落ち着いた経緯は別に記しているので、ここでは省くことにする。が、この件では最終的には、福田大臣が田中総理の意向ないし思いを尊重したことになるのである。
 昭和四十九年七月、福田大臣は狂乱物価もおおむね収まったし、この辺で辞めるからな、と言うので、私も一緒に辞めさせて欲しい、と福田大臣の慰留の言葉はあったものの辞めることにしたのである。
 さて、どうするか。取り敢えず事務所を森ビルの一室に構えることにしたのである。鳩山威一郎氏の事務所の隣りで、第十七森ビルの十七階であった。
 さて、どうするか。
 私は通例に従って公庫公団などの総裁に転出するのはどうしても気が進まなかった。先輩の人達が後輩に頭を下げてどこかいい所をと頼むのを見ているだけに、自分はそうしたくなかった。日銀総裁になれるのなら別だと思っていたが、当時の大蔵、日銀の交替人事なら、大蔵省のOBには一〇年に一ぺんしか回って来ない。総裁の任期は五年だからである。
 私は大へんな読み違えをしていた。普通で行けば、例え後輩であっても何人かに頭を下げるぐらいでよかったものを、選挙となって数万人どころか、もっと多くの人に、数十万回も頭を下げるようなことになった、からである。
 ともあれ、田中氏からは、鳥取の参議院議員、大分二区の衆議院議員、東京都知事などの話があり、福田氏からは大分県の参議院議員、大阪五区の衆議院議員(松田竹千代氏)、の話があった。
 私は大いに迷った。私なりに調査もした。横浜で出るか、鳥取で出るかである。横浜は鎌倉時代から先祖代々住み、私自身も小中学校もそこで学んだところ、鳥取は亡くなった妻も再婚した妻の司葉子も生まれたところで係累も沢山いた。田中氏は横浜を薦めた。たとえ佐藤一郎とせり合うことになっても、自民党はせり合うほど強くなるんだと言い、福田氏は鳥取がいい、田舎は一ぺん当選すれば長もちがする、都会はあてにならないということであった。
 私は、後輩の朝日新聞の桑田氏や同期生仲間に横浜の状勢を聞いたり、鳥取県の様子を知人に聞いたりしたが、横浜は藤山氏の全面的な支援があっても、佐藤、小此木と私の三人が出れば定数五人の選挙区では良くて二人、下手をすれば全員落ちるかも知れないと藤山氏からも言われ、佐藤氏が二度も頭を下げて横浜を譲ってくれるようにと懇請されたので、つい鳥取で決心をして了った。あとから考えれば横浜で出るべきで、先輩といえども譲るべきではなかったか、とも思うが、鳥取では落下傘候補と言われただけに、心底県民になる努力をしたし、事実愛着も深くなったのである。
 森ビルに事務所を構えた時、一番最初に来たのは河野氏であって、二区は田川、三区は自分、参議院は河野(叔父)だから、君が一区で出てくれれば全県で揃うからとくどかれたが、未だ議員にもなっていないのに、とお断りした。
 とにかく、大蔵事務次官の時の総理は田中氏、大蔵大臣は福田氏であって、両氏ともお互いに多少遠慮をしたこともあり、結局いずれの派閥にも入らず出馬することになった。田中総理からは、派閥に入るとどうしても順番があったりするから無派閥でおれば俺が一本釣りで大臣にするからと言う言葉もひびいたのかも知れず、暫らく、私は、田中派の客分ということで総会にも一、二年生で出て挨拶をしていたのである。
 結局、大臣になるには派閥入りが遅れた分損をしたと思うが、一番こたえたことは田中氏がロッキード事件でこけたことであって、それが響いたことは確かである。
 
 


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