back 理事長 相沢英之 のメッセージ
       「地声寸言」
  2011.09.13リリース

第百十一回 <八月十五日という日>
 今年の八月十五日は終戦の日から数えて六十六年目である。
 その日、私は、朝鮮の京城にいた。関東軍の隷下の野戦軍第三十四軍司令部で経理将校をしていた。
 竜山の高等女学校が朝鮮軍司令部経理部の移転先となっていて、正午その校庭に据えられたラジオから終戦の玉音放送を聞いたのである。多少雑音が混じっていたが、忍び難きを忍んで終戦を受け入れるという卸趣旨はよくわかった。
 一瞬心の中にポカット大きな空洞が空いたようであった。八月に入り、ソ連軍が不法に侵入して来た頃から米軍の短波放送などによって何か予感はしていたが、それが現実のものとなったとなると、話は別である。
 くっきりと晴れた青い空にはB二十五が二機白い飛行機雲を曳いて高く飛んでいたのをじっとふり仰いでいるうちにとたんに悲しくなると同時に身体中の力が抜けて夢遊病者のように街中をさまよい歩いた。
 あの中支の戦線で死んだ多くの戦友達の死は全く何だったんだろうか。一体われわれは何のために戦って来たのだろうか。これで一切ダメになった。
 南大門の付近をふらつきながら、私は故国の親きょうだい、友人などの顔を次々に思い浮べた。あゝ、これで死ななくて済んで、助かったという、という思いが涌いて来た。
 さて、何をしょうか。私の足は何故か本屋に向いていて、そこで、読みたいとおもっていた小説を二、三冊買って、それを小脇に抱えて宿舎となっていた備前屋という旅館に戻った。
 宿の主人は、「四十年も経営をして、やっとここまでやって来たのに、もうお終いです。
 今日は私がおごりますから、心行くまでお酒を召し上って下さい」という。
 テーブルにお銚子を十二、三本も並べただろう。さて、これからどうするか。当初の出張命令道りに関東軍司令部のある新京、貨物廠のある奉天に行くべきか、許婚者一家のいる北京に行くか、はたまた一挙に南下して釜山経由で日本へ帰るか、とつおいつ迷いながら父、母、きょうだい、親友などに飲みながら葉書を十枚も書いたところに同じ司令部の同僚が二人入って来て全く様子がわからないから、ともかく軍司令部のある感興に戻ったらどうか、という。
 さて、その気になって二人と一緒にどしゃぶりの中、夜汽車で三十八度線を越えて感興に戻ったのが、運命の別れ目であり、運の盡きであった。
 あの夜の列車の屋根を叩く激しい雨音は今でも思い起こすことがある。
 それから三年の辛い抑留生活の端緒が始まるのである。
 戦争は嫌だ、戦わざるをえないところに追いつめられたABCDライン包国下の日本の当時の情勢はわからぬではない。それにしても、何故開戦が避けられなかったか。何故途中で停戦、終戦に持ち込めなかったか。過ぎた事は再び帰らないにしても、明日がある、将来がある、子々孫々に至るまで戦争の災害に遭わしたくないと心から思い、訴えるのが八月十五日の日である。
 然し、戦いは相手からは仕掛けられることがあることを忘れてはならない。その場合、こちらが武器を持たないからと言って、戦いにならないということはありえない。嘗て、社会党の書記長某氏とテレビ対談で論戦をした際の彼の発言が非武裝中立を守っていれば戦争にはならないと言うものであった。私は、絶対にそんなことはありえないと反論し、激しい言い争いとなったことを思い出す。
 衆議院議員在籍二十五年で永年勤続者として本会議場で表彰を受けた際、年長の故をもって十数名の議員を代表して謝辞を述べたが、私は、「絶対に戦争をしてはならない」と述べた途端に一斉に拍手を受けたが、「然し、もし相手から仕掛けられてどうしても戦わざるをえなくなったなら、絶対に負けるようなことがあってはならない」と続けて発言した時には、自民党席からは大きな拍手、社会党など野党席からはブーイングであった。
 私は、今も間違った発言をしたとは思っていない。だからかってあった防衛費の総額をGDPの一%以上にするとか、しないとかの議論は別であると思っている。それを守ったから負けても仕方がなかった、と誰が納得してくれるのであろうか。
 八月十五日。いろいろものを考えさせる日である。
 
 


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