back 代表理事 相澤英之 のメッセージ
       「地声寸言」
  2013.10.17リリース

第百五十一回 <九月三十日>
 前にもちょっと触れたことがあるが、社会思想社編の「三六五日事典」なるものがある。その今日三十日の頁を開いて見ている。
 「今日の歴史」として、毛沢東が中共政府の主席になったのが今日であることを挙げて。毛沢東は抗日運動の闘士として活躍しただけでなく、「持久戦論」、「新民主主義論」を著わした理論的指導者でもあった。そして、解放区の政策の一致、人民の団結強化に大きな影響を与え、いわゆる風(学風、党風、文風)整頓運動もその理論的実践であり、中京の特色とする一大教育運動の伝統をきずいたという。
 昭和二十一年(一九四六年)のこの日、財闘解体で三井、三菱、安田の三本社解散が決定された。
 しかし、日本の非軍事化、民主化が狙いである占領軍の財閥解体は実際に銀行に手を触れず、又不徹底であったので、財閥の実質的な再編成が着々として行なわれた。とこの本には書いてあるが、も少し勉強して実体を明らかにしてみたいと思っている。
 この本には「歴史メモ」として 
  遺唐使の廃止(八九四年)
  新生活運動協会発足(一九五五年)
  東大原子核研究所で日本最大のサイクロトロン試運転に成功(一九五七年)
  義宮さまと津軽華子さんの結婚式が載っている。
 このうちサイクロトロンについては思い出がある。ノーベル物理学賞を受賞した湯川博士や朝永、茅、坂田というお歴々が原子核研究所の設置の陳情に来た時、私は文部省予算の担当主計官をしていた。
 原子核とは何ぞや。予算を認めるとなれば予算の局議では、主計局次長の前で、その必要性を力説しなければならない。そこで、朝永先生に大蔵省にお出でを願って、原子核研究所設置の必要性について二時間以上にわたってメモをとりながら説明を聞いた。
 ところが、局議で石原次長に説明をしている間に俄が仕込みのボロがはげてしまって、科学の好きな石原次長が遠慮なくつっ込んで来るのにタジタジになった私は、最后はとにかく朝永さんや皆んながどおしても必要なものだと言いますので、と答えにならない答をして、笑われて、それでも認めて貰ったことを昨日のことのように思い出す。
 東京教育大の光学研究所に籍を置いていたと記憶している朝永先生は、研究所のあった新大久保の駅近くのおでん屋でよく酒を飲んでいて、同じく新大久保の公務員宿舎に住んでいた私は、時におでん屋で一緒にしたこともあった。何も知らない私などにも、できるだけ理解しうるような説明をしてくれる先生であった。若い学者ほど素人によくわからない説明をするものだと感じていた。
 サイクロトロンの現場も見に行ったことがある。皆さん亡くなられて了まったが、私には懐かしく思い出である。
 九月三〇日はネッケル(政治家・一七三二年)ズーデルマン(作家・一八五七年)生まれた日であり、天野貞祐(教育者・一八八四年)、夢窓疎石(僧侶・一三五一年)の亡くなった日である、という。天野先生は私が一高を卒業した後、一高の校長となり、文部大臣にもなった人である。
 戦後、天野大臣の発案で小学校の一年生に国語と算数の教科書を無償で支給するという、俗称お年玉法を内藤譽三郎初等中学教育局長と協議して廃止することにしたのは私である。
 私は、その代り、準要保護児童・生徒には全教科書、後々には教材費、修学旅行費、学校給食費、学校安全会の会費などをすべて無償にすることにした。ところが、その後、文教族が騒いで、教科書無償法案を通すこととなったのは、私としては大へん残念であり、今でも反対している。
 「義務教育無償」というのは、授業料を払はないことであると考えている私は、児童、生徒一人当たり数千円の負担を父兄ができないわけはないので、そんなことをするより、教科書代を施設、備品などの整備に回した方がいい、金の使い方として皆に小銭をばら撒くような補助金よりはいい、と今でも思っている。
 
 


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