back 代表理事 相澤英之 のメッセージ
       「地声寸言」
  2015.06.26リリース

第二百十六回 <ガウディの夏>
 「ガウディの夏」という五木寛之の小説を読み始めている。彼が割と多く書いているテレビのプロデューサーの世界の物語である。女優も当然出てくるし、食事をして、ホテルで寝る話も出てくるし。大して抵抗もなしに読ませるし、いつの間にか、その世界につれ込むのも彼のなめらかなペン先である。
 ガウディのサクラダファミリアなる一風変わった建物は、私も今から二〇年以上も前に家内や息子とあの方面を旅行した時につくづくと見た。
 建築を初めてから約二〇〇年かかっているが、完成にはあと一〇〇年はかかるのではないか、と聞いた。信徒(?)の献金で凡て賄っているので、金が集まらなければ、工事はストップするのだという。石で築いているし、又そのガウディの設計なるものも、一見でそれとわかる形をもっている。石はコンクリートと違って、本当に長持ちするなと思った。日本人も中に加わっていて、一部の彫刻を受け持っている、という。
 市内にはガウディの設計にかかる他の建物も一再ならず存在するとかで、その一つ、二つを見たが、何と言うか、四角にあるべき建物を曲線で崩して建っている、といったらよいか。
 たまに、あゝいう形の建物もいい。ただあゝまで土をこねるようにして貰うと、何となく落ち着かないが、それでいてジッと見ていると何となく了解したような気もする。
 絵でもそうだが、ルネッサンスのあのリアリズムも越える作品はもう不可能と諦めたところから、あの形を崩した、考えようによってはどうとも判断されないようなアブストラクトの世界が生まれて来たのか、と思う。身体全体で吠えるのではない、身体をつき破って声が空中に発散する、とでも言うか。だから、すれ違って仕舞った人には壊れた石のかけらは、何の感動も与えないのではないか。
 あれは、絵の世界だけの現像ではない。彫刻や建築の世界にも当然、あゝ言ったメタモルフォーゼがある。その一人がガウディではないか。
 日本の書道の世界にも似たような現像が現われている。差を感ぜしめない程崩れた字は、コマかしても書ける。
 しかし、いずれにしても具象の世界をふみ破って出て行くからいいのであって、初手から何の訓練もしていない人の、子供のいたずらみたいな書に誰が感動するのか、と言いたいが、間違いか。書は書であって、絵ではない。
 ガウディの建築物を見た時は、あれが建物かいな、とショックを受けたことは事実である。
 ニューヨークやパリ、ロンドンなどみんな違うけれど誰が見ても美しい近代建築の群が見られるが、ガウディのは一寸ではない、全然違う建物である。
 建物は本来人間の住まうところ、四六時中じっと暮らして飽きない、気分のいらただない、そして省力的な便利な建築物が望ましいのだろうと思う。外観はともかくとして住居としての便利性・経済性に重点を置いて考えれば、モスコウや北京など社会主義の国に見られるアパートが代表的なものではないか。同じスケールのものを何十、何百と建てれば、一番安上がりなのは言うまでもなかろう。二、三年前北京の友人のアパートに初めて行ったが、その種のものであった。安いが、全く味気がないねえ。
 ガウディの建物は、サア何と言うか、直線的な材料で建てた建物ではない。中に案内されて、建築中の建物もあちこち歩いたが、マアあと百年はかかるのではないか、という。全く気の長い話であるが、又何となくいい話ではないか。
 ノーマルに対してアブノーマル、リアルに対してアブストラクト、ハードに対してソフト、直線に対して曲線、何となくすき勝手なところがある。
 私は、建築も素人だから、何と評価していいか、よくわからないが、何となく、勝手にしやがれ、と言いたくなるような建物である。
 いくら石でも三〇〇年も経ったら、欠けたりして、形が崩れて了まうかも知れない。それでも、きっと差支えないんだろうな。
 五木寛之の「ガウディの夏」は建築とは大した関係はない。しかし、どうしてもガウディの映画を撮ろうという人が出てくるのが、テーマである。
 私が、旧制高校へ入った年、クラスの友人と上野の美術館に絵を見に行った。同じようなテーマで書いた油絵が二、三点あった。一枚だけ、キレイな絵でなかったが、後々までその絵が印象に残っていた。何故と言われてもよく説明できないが、そこに訴える力を感じたのだろうか。ムンクの絵もそうだった。
 サクラダファミリアもも一度見たいな。二十年以上経った。少しは工事が進捗したかしら。
 
 


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