back 代表理事 相澤英之 のメッセージ
       「地声寸言」
  2017.07.21リリース

第二百六十三回 <いのちの初夜>
 昭和の初め頃に亡くなった作家の作品である。最初の題は「最初の一夜」であったが、これを読んだ川端康成が改題をし、「いのちの初夜」となった。
 作者は奇しくも、自分が癩患者であることを知らされ、東京府下東村山の「全生病院」に入院。昭和一〇年「間木老人」を文学界に発表、癩患者の最初に書いた小説として文壇にセンセーションを巻き起こし、文学界賞を受けた。
 川端は私の一高の先輩であって、私も彼の小説をとりつかれるように読んでいたが、彼の推したこの小説も一晩で読んだような気がする。
 戦後癩の特効薬も普及し、患者も全快できるようになったが、彼が全生病院に入っていた頃は、不治の病として隔離され、彼自身、何度も自殺を決意したが、昭和十二年腸結核で二十三才の若い生命を閉じてしまった。
 私は、丁度その頃一高に入学し、洋の東西を問わず小説を乱読していた頃であったが、「いのちの初夜」は全くショッキングな一本であった。
 しかし、それにとどめておけば良かったのに、この「いのちの初夜」をテーマとする記念祭の飾りつけを作ったのである。一高の記念祭は、寮の各部屋ごとに一部屋十数人の生徒が知恵を出し会ってつくるのであった。しかし一月三十一日の記念祭のイブになっても、センベイーと酒は遠慮なく減って行くのに、いい案ができない。それでもやっと思いついたのが「この生命の初夜」であった。
 「われらはいかにするめいか」。全くのくだらない、ゴロ合わせみたいな題の飾りつけになって仕舞った。飾りつけと言っても、部屋の窓に「するめ」と「いか」を宙に張った糸でぶらげるだけのものであった。それでも、やっと難問を片ずけたとばかり、又、夜の街を渋谷に飲みに出かけてしまったが、翌朝見てみるといかも、するめも見当たらない。多分、付近の部屋の悪童どもの仕業に相違ないと歯がみをしたが、仕方がない、も一度街にいかとするめを買いに行った。
 その年の飾り場の傑作は「桐一葉落ちて天下の秋を知る」という有名な芝居の題をもぢって「桐双葉、落ちて、天下の安芸」と知るであった。双葉山が六十九連勝のあと「安芸の海に破れたことをうたったものであった。
 わたしは、未だにこの川柳はよく出来ていた、と思っている。
 もっとも最も手を抜いた作品は?「偉大なる暗闇」という、ただ電気を消して真暗な部屋を見せる、というものであったので、それよりは、自分達の方が手間がかかっていると、笑い合ったものである。偉大なる暗闇は夏目漱石の「吾輩は猫である」の中の人物の借物であることは言うまでもない。
 あゝ、それにしてもあの時代は懐かしい。
 
 


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