back 代表理事 相澤英之 のメッセージ
       「地声寸言」
  2017.08.29リリース

第二百六十八回 <あれこれ>
 私は、ものを書くのはあまり苦にしない方である。書きたくしょうがない時期もあった。物を書き始めたのは、私が一高で「向陵時報」という月刊紙のいわば編集長となった頃からであったかなと思う。その新聞は原則として毎月一回、タブロイド版四ページ。大きく分ければ寮の出来ごと、文芸、スポーツであって、文芸欄が二ページで一番スペースを占めていた。
 「旧制一高の文学」という稲垣眞美の著書がある(二〇〇六年三月三日発行)。この本と一部は重複するが長谷川泉の「あゝ王様」「副題わが一高の青春」がある。
 「交友会雑誌」の創刊は一八九〇年(明治二三年)であり、向陵時報のそれは  (昭和五年一月、もっとも第一次とも言うべき向陵時報の開源は大正十一年に溯るがチャチなもので、発刊後間もなく廃刊となったが、その後、複刊した)。
 交友会雑誌も向陵時報も一高の雑誌として存在していたが、交友会雑誌は文芸部委員が、向陵時報は寮の担当委員が責任者となっていた。両社の作品が掲載されることも多かった。
 私が一高在学中に遠藤湘介、小島信夫、川俣晃白、浅川淳、中村真一郎、加藤周一、白井健三郎などがしきりに良い作品を載せていたのに刺激されて、私も数編書いたものを載せていた。
 交友会雑誌に「生活の悦び」、「港の風」、交友会雑誌に「西伊豆の海」、「憎しみ」などが載っていたが、今読んでもまことに稚拙なもので汗顔の到りであるが、ま、思い出としていとほしい気がしないでもない。
 あの頃は、学校の授業は代返などを当然出席として一年の約三分の一、七〇日までは欠席を認められていたので、ただひたすらテニスと野球の他は洋の東西を問わず、文学書を読み、自分でも書くという毎日を送っていた。
 考えてみれば、いい日々であった。三年生になって、東大の学部のどれを希望するかと悩みに悩んだが、とても文学ではメシも食って行く自信がない、ならば文芸の育つ環境作りをやって行こうと決心をして、法学部政治学科に入学したのであるが、三つ子の魂百までという言葉はまだ忘れていない。
 
 


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