back 理事長 相沢英之 のメッセージ
       「地声寸言」
  2009.05.12リリース

第四十回 <「野球昔がたり」>
 サッカーがこれほど沢山のプロチームが出来、何万人もの観客を集めて連日試合が行われるなど昔は思っても見なかった。今でも単純な球の蹴り合いのどこが面白いんだと言う人もいる。
 いずれにしても海外のサッカー熱がやっと日本にも拡まった、いや拡がりすぎたのかもしれない。
 以前はサッカーというより単にフットボール(蹴球)又はア式蹴球(アソシエーション・フットボール)と呼び、ラグビー・フットボールはラ式蹴球又は単にラグビーと呼んでいた。
 いずれにしても戦前は六大学野球と高校野球の時代で、小学校から中学校にかけての私は、早慶チームの選手の名前とポジションは諳んじていたし、昭和八年、明石中と中京商が準決勝戦を二十四回まで〇対〇で戦い、やっと二十五回目に中京商が一点を入れて勝ったという歴史的な試合もラジオに齧りつき、スコアーブックを拡げながら記録を書き続けたことを思い出す。
 昭和九年アメリカから初めて大リーガーがやって来た。ホームラン王のベーブ・ルース、ゲーリッグ、ゲリンジャーなどの有名選手達のチームを迎え打ったのは六大学の選手を中心とする日本チームであったが、物の見事に連戦連敗で、改めて日米の野球の力の差を見せつけられた。私は、中学二年で当時の横浜球場に見に行った。開始数時間前から文字通り立錐の余地もない程スタンドは観客で溢れ、それも立ちっ放し。
 試合の始まる前、あれは何と言うのだろう、シャドウ・ボクシングみたいに恰もボールがあるかのように投げたり、打ったりの実にうまいショウをして見せてくれた。
 当時の横浜球場は狭かったせいもあるかと思うが、うろ覚えだが、アメリカチームはホームランを十一本打ち、日本チームもつられたかのように三本のホームランを打った。ベーブ・ルースは三本打ったが、回っているレコードの文字を読みとることができたという彼の眼には、止った球を打つように思えたのかもしれなかった。
 日本のプロ野球のチームはそれから二年後の昭和十一年に東京巨人軍が発足したのが初めだったと記憶している。
 いずれにしても、当時は六大学の野球選手が花形だった。宮武、腰元、三原、水原、牧野、本郷、山下、若林などうろ覚えだが幾人もの選手の名前が浮かんでくる。
 六大学のリーグ戦と言えば、神宮球場を湧かしたもので、応援団の合戦も華やかであった。なかでも、早慶戦は大へんなイベントで、両チームの戦績に拘わらず、リーグ戦の棹尾を飾る試合となっていた。有名なリンゴ事件で一時休戦となったことはあったが、例年、早慶戦の終った後は、応援団が慶応は銀座、早稲田は新宿に繰り出し、「陸の王者」と「都の西北」の歌が盛り場を圧して夜遅くまで響いていた。
 私たち旧制高校の仲間はなぜか慶応の贔屓が多く、早慶戦の夜となれば銀座に出ては、慶応のOBたちと一緒にバー巡りをしていた。どこでも先輩が陣どっていて、そこの勘定は一切持ってくれていたので、それをいいことにして一緒に「陸の王者」で乾杯を叫んでいた。今は昔の物語ではあるが、あの頃は、世の中何となくおおらかなところがあったものだと思う。
 その後、私は、大学を卒業し、学徒動員で陸軍に入営、主計将校として北、中支を転戦、最後に所属した軍司令部が北朝鮮に移駐した直後終戦、そのため戦後、ソ連に三年間抑留されることになった。
 ウラルを越えて、ボルガ河の支流カマ河の河畔の町エラブガであった。
 かつては立派な教会堂を持つ修道院跡の収容所の生活は冬は零下二十度以下になるという酷寒の下、乏しい食糧事情での強制労働は若い身にも耐えたが、五千人の将校収容所であったし、殆どが学徒出身であった。収容所も二年目の生活となり、食糧事情もやや良くなって来た頃、六大学野球をやろうじゃないか、という話がどこからともなく出て来た。
 音頭をとった私は、選手団のリストを募るとともに所内の縫製工場で働らく仲間に野球のグローブ、ミットなどの製作を頼み、バットは木工場に頼んだ。見よう見まねで何とか道具は揃えたが、一番難しかったのはボール作りであって、皮を縫い合わせるまではよかったが、芯に何を入れるかで苦労した上、芯を真中に落ちつかせることが難かしく、詰り重心が球ごとに違っていて、投げるのに苦労した。
 それでも、リーグ戦開始の当日は余り広くもない広場で、それぞれ手製の校旗を持った選手団の入場式が行なわれ、演劇中隊のブラスバンドが景気をつけた。
 この時は、第一回に早慶戦を持って来た。慶応チームはピッチャー成田、キャッチャー酒井と期せずしてかつての神宮のバッテリーが揃って登場、他のメンバーも六大学で神宮か、慶応商工で甲子園に出た選手であり、早稲田のチームも六大学か早実で出た選手で、試合もそれなりに昔とった杵柄、見せるものがあった。
 何試合こなしただろうか。東大は選手数こそいれ、ここでも一番弱かった。
 楽しみの乏しい収容所にあっては、大勢の観衆(?)を集めてにぎやかであったが、結末はあっけなく閉幕となった。というのも、発疹チフスの発生であった。こういう場合のソ連流のやり方は簡明で、とにかく一人でも患者が発見されたら、その中隊を隔離中隊とし、労働は免除、食事は外から運んで来るという方式であった。その中隊のものは働らかなくていいので喜んでいた。
 ところが、患者が一人、二人ではなくなると隔離中隊ばかりが増え、労働要員がなくなって来たので、今度は逆にして、患者の出なかった中隊を隔離して、それまで遊ばせていた中隊を働らかせるようにした。合理的なのかもしれない。が、とにかく、これで野球も出来なくなり、六大学リーグ戦も中止となっている中に九月となり、冬の始まりであった。
 この収容所の早慶戦は、その後、慶応の某教授(名前は失念)が早慶戦の歴史の本を出版しようとした際、どこで聞き込んできたか、私のところへも来たので、いろいろ知っている限りのことはお話しした。もう三十年以上の昔のことである。
 運神もあり、体力も優れている若者がそうあるわけではない。以前、プロ野球にばかり優秀な運動選手が集まって来るので、日本の陸連、水連などもパッとしないのではないかと言っていた私であるが、今は、サッカーに人材が集まり過ぎると、他のスポーツは又国際的に活躍できる人を失うのではないかと思っている。読者諸賢如何に思われるか。
 
 


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