back 理事長 相沢英之 のメッセージ
       「地声寸言」
  2009.06.01リリース

第四十三回 <「長生きの運」>
 つい最近、大蔵省同期入省の友人が亡くなった。早生れであったから、私より一つ若い。この間、森光子放浪記二千回記念の公演を彼女の誕生日に帝劇で観た。私より一つ下である。
 いずれにしても、この頃はよく長生きの秘訣は何かと問われる。その度に、一言にして言えば運ですよ、と答えることにしている。
 私どものように太平洋戦争中に外地の部隊にいたものは、とくに生き残った運を痛感する。
 思い出すことのうち幾つか。
 陸軍の経理部見習士官として、東京師団の歩兵部隊勤務であった私は、北支方面軍司令部に転属を命じられた。それから、総軍、中支と転属を重ね、二十年の七月所属していた第三十四軍司令部が北朝鮮咸鏡南道の咸興に転進し、そこで終戦、その後ソ連に抑留、三年後の八月十四日に舞鶴に上陸、やっと復員をした。
 昭和十七年九月大蔵省に入省した二十七人のうちの最後の復員者として身の不運を歎いた。ところが、私の所属していた東京師団は十九年の六月硫黄島に転進、そこで全員玉砕となったことを引揚後知った。北支への転属がなかったら私も玉砕者の一人であったと思うと、やはり、いくらか運が良かったのかと思った。
 漢口の第三十四軍経理部調弁科主計将校の時である。昭和十九年十二月末、石炭、塩などの輸送促進のため北支方面軍司令部に出張を命じられていた私は、昭和二十年一月末南京ホテルで漢口への便船を待っていた。待つこと一週間、やっと一室を確保したからという停泊場司令部の連絡を受けた私は、漢口へ飛ぶ空の便も総軍参謀部に頼んでいたこともあり、その上、どうしてもその船に乗りたくなかったので、見送ることにした。その三日ぐらい後にやっと飛ぶことになった高等練習機で漢口飛行場に降り、司令部に帰隊の報告に行ったら、貴様は幽霊ではないか、と同僚に言われた。私が乗ると言って連絡していた船は莫大な札もろとも九江で米空軍の爆撃で沈められたという。私が船に乗らなかったことが通知されていなかったのである。
 あれは、武昌からさらに奥漢線で南、咸興の歩兵第十二旅団司令部の経理勤務班長として物資収買業務を担当している時であった。八月の中頃、漢口を爆撃した米空軍B25十五機が城内を爆撃した際のことであった。
 主計伍長一名を連れていた私は、キラキラ光る米軍機を見て咄嗟に目に入ったタコ壺に飛び込もうとしたが、そこにはもう兵隊が一人鉄帽をかかえてうずくまっていた。仕方がないので、他のタコ壺を探そうとしたら、もう爆弾の雨。道路にうつ伏せになって通りすぎるのを待つしかなかった。爆弾の炸裂する轟音とともに猛烈な突風で一尺近くも身体を持ち上げられ、痛いと思ったら爆弾の破片で右肩をかすられていた。猛然とした砂煙りがおさまって、タコ壺を覗いたら何と直撃弾で兵隊は死んでいた。もし彼が入っていなかったらと思うと総毛だった。私が連れていた伍長は、私が止めたにかかわらず直ぐ近くの貨物倉庫に転がり込んだ。爆撃の時は、建物の中ほど危ないと注意していたのに、探しに行ったら、顔半分を血だらけにして死んだようになっていた。リアカーを探して、直ぐ野戦病院に運んで行った。一目見た軍医は言う、もうダメだ。こうなると助かりそうなのから処置をする。頭と腹はダメだと言う。そこで何とか、とムリを言って、先に手術して貰ったが、幸い一週間後には、何とか生命をとりとめた。それでも、空襲警報の鳴る度に、意識のない彼が這って防空壕に潜り、入口でパッタリ意識を喪うという話を聞いて、生きようとする執念の強さを思わないではいられなかった。これも一つの運であった。
 まだまだあるが、いくら書いても仕方がない。戦場に身を曝したことのある人なら当り前の経験であったろう。
 今まで生きて来る間には、誰でも生死の境を踏んで来ているだろう。
 そこでいつも思う。今まで幾度か危ない目に遭いながら、生命永らえて来たのは、なお、生きて働らけという天の声だと思い、身体を大事にと自らに言い聞かせているが、読者諸賢如何に思われるか。
 
 


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