back 理事長 相沢英之 のメッセージ
       「地声寸言」
  2011.03.22リリース

第八十八回 <「武漢の日々(中国訪問)」>
 支那にいた期間は正味1年と2ケ月と、思えば以外に短い期間であったが、私には3年もいたように長く感じられる。その間、北京の方面軍司令部、咸寧の歩兵第12旅団司令部、漢口の第34軍司令部と勤務し、しかも34軍司令部では、経理部の庶務科と調弁科と勤務場所が変わっているから、都合4ケ所で仕事をしていた訳で、平均してみれば1ヶ所4ヶ月にも満たないことになる。そんな気がとてもしないと云うのも、それぞれの職場での勤務が内容に変化があり、やり甲斐もあり、充実していたせいではないか、と思っている。
 杜の都と言われた美しい古都北京での全く役所で働くような勤務、電気もない咸寧の旅団司令部での野戦部隊としての主計勤務、漢口の軍司令部での経理部長の副官としての裏方勤務、調弁科の主任将校として金属材料の調達及び海陸の輸送業務の担当と内容はいろいろであった。本当に武漢地区では絶えず米軍の空襲に身を晒して緊張の中での勤務は私は忘れることのできない経験を与えてくれた。
 この程度の経験で支那を知ったという積もりは毛頭ないし、支那語もろくに覚られなかったし、自慢はできないが、それでもいくらかあの広大な土地に十数億という民を抱えている大国の姿の一部を見ることができたことは本当に良い経験であった。
 戦後、何回中国に出かけただろうか。今、思い出してみる。
 最初は昭和51年衆議院議員に初当選して、一年ぐらいしてか、政策研究会きさらぎ会として議員仲間7、8名と視察に行った。私が団長で北京飯店に泊り、廖承志中日友好協会会長、孫平化秘書長などの歓待を受け、王震全人代副委員長などの要人との会合を持った。
 次は、自民党の広報副委員長・出版局長として出張した際は釣魚台に泊ったが、その宿舎では朝食の度に日中友好文化使節団の井上靖、奥村土牛、吉永小百合などの一行と会った。
 3日目は選挙区鳥取県の茶道関係の大人数の観光団として天津、北京を訪問。北京では私が親しくしていた全人代の王光英副委員長他多勢の中国側の来賓を招いての会食もあった。
 その前、未だ復帰の前だったから中国とは言えないが、地元鳥取県の後援会の百余人と香港へ旅行。ここで光大実業の代表をしていた王光英氏に一行全員豪華な中国料理の招待を受けた。
 次は、中国に知人の多い河野洋平氏、中島弘毅氏などと上海、漢口、北京の旅行。かつての漢口での勤務場所が中国銀行の漢口支店となっているのを50年ぶりに発見。大へん懐かしかった。その傍の露店で食事をしたが、その時の白酒が大へんおいしかったと後々まで言っていたのは同行した家内の葉子であった。
 次は全まきの会長として一行7名ほどで東北は大連地区に出かけた。当時、日本からさばを年間17.8万トンを中国各地に輸出をしていたが、大連でのさばの処理工場などを視察し、初めて二〇三高地などの名所も見学した。日本の食料製品が安全で味が良い、ということで、日本でよりも遥かに高い価格で売られている実態にも觸れることができた。
 次は、昨年1、2月、東京福祉大学の学長として北京への二度の出張。留学生の増加を図るため、北京第二外国語大学を初め、いくつかの斡旋機関を訪ねた。久しぶりに一高の特設高等科(当時支那からの留学生の科)卒業の人に会い、家も訪ねて歓待された。
 以上、思い出して書き並べて見たが、都合8回中国を訪れたことになる。
 長春(当時の新京)瀋陽(当時の奉天)咸寧などへのセンチメンタル・ジャーニーは別としても、まだ行ったことのなりハルビン、西安、重慶、青島、広州などへも是非訪ねてみたいと思っている。さて、いつの日になるか、齢90才を越えた今定かではないが、是非実現したいものと思っている。
 
 


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