back 理事長 相沢英之 のメッセージ
       「地声寸言」
  2011.12.20リリース

第百十七回 <自治寮委員の仲間>
 一高のとき自治寮の委員をした。二年生であった。結構忙しくて学校は出来る限り休んだ。大和田委員長、古谷副委員長等と毎日委員室で顔を合わせていた。寮は自治制であったから何から何まで委員が決めた。何かあった場合委員会が登校停止や禁止も決めたから、いわば退学も委員会で決めるようなものであった。
 大和田は東大を出て農林省に入ったが、東大農学部の教授となった大内力(同期)など戦後の自作農創設という農地改革作業の中核となって活動した男であるし、古谷は小壯経済学者として東に古谷あり(西は忘れた)といわれた超秀才であった。水泳で有名な沼津中の出身であるにも拘わらず、泳げず、三十五才の若さで伊豆の今井浜の浅瀬で波に倒れて亡くなった。まことに惜しい人物であった。
 風紀点検(フウテンと略称)は恐い存在であった。東大の地震研究所の所長になった力武もその一人であった。炊事などの担当委員は献立や食費の額の責任を持っていた。私は寮の新聞「向陵時報」の編集長で、私の他に行事・文芸・スポーツなどの担当の編集員がいた。月一回の発行で中外商業新報(のちの日経新聞)の印刷所に出向き、狭い校正室で一日ゲラとにらめっこをして、終れば朱筆で校了と入れ、銀座に出てビールで夕食というのが楽しみであった。
 印刷所では慶応(三田)などの大学新聞を刷っていた。一パイ飲んでゲラ刷りを見直していると、きっと誤字、脱字を見つけるのが妙であった。同じ人が何べん読んでも間違いは見つからないものだと思った。
 ゲラを組んで字があまれば削り、足りなければ、その場で埋め草を書き、編集後記とするのは苦でもあり、楽しみでもあった。
 原稿は寮の建物の外に立てた投稿箱に入っているのから選択したが、遠藤周作の兄の正介のものを落したことがあった。短い小説であった。その頃は無論弟が有名な作家になるなど思いもよらなかった。
 文芸欄を担当していた長谷川泉は詩をよくし、東大の国文科を出たあと文芸評論などで活動していた。医学書院の社長をし、学習院大学で教えていたが、森鴎外の記念館の館長などもしていた。彼の詩集の出版の時、井上靖のあと私が祝辞を述べた。彼は筆の字がなかなか達者であった。すべて往事茫々である。
 
 


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