back 理事長 相沢英之 のメッセージ
       「地声寸言」
  2012.04.05リリース

第百二十一回 <人の気も知らないで>
 この頃、本を読んだり、何か書き物をする時には大抵CDで歌を聞くことにしている。音楽をかけながら勉強をする人は少なくないようだが、私は、若い頃から、そうすると気が散るので、音楽はかけないことにしていたし、家族が聞いているラジオも音をうんとしぼらせたりした。自分の勉強が一家の団欒の場も妨げてしまったのではないか、と長じて後悔をするような始末であった。
 その私も、近頃は音楽をかけながらの読書である。もっとも読む本も大ちがいである。教科書や受験本を読んでいた昔とは違って、今は、読んでも読まなくてもいいような本が大部分である。昔は、それを覚えなければ目の前の試験も通らない、という切羽詰った読書であった。今は違う。乱読が多いが、たまには専門の本を拡げる。どうでも理解し、覚えおくという必要はないのだから、すこぶる気は楽である。嫌になったら止めるし、よくわからない御託を並べているところは、時にすっ飛ばしても、誰も文句は言うものもいない。まことに気楽な読書である。だからCDをかけていると、ちょうど何だかいい塩梅なのである。
 だが、音楽は何でもいいという訳にはいかない。趣味の問題だろうが、私はシャンソンがいい。戦前のダミアのものなどもいい。
 高校生の頃、モーパッサンの小説を原語で読みたいばかりに、アテネフランセの夜学に通っていた。確か週三回であったと思う。先生はロジェ・マルタン・デュ・ガールの「チボー家の人々」などを訳した山内義雄教授であった。もっと熱心にやっておけばよかったのにと、今でも後悔しているが、女子学生が大部分のなかなか華やかなクラスであった。
 一度教えたフランス語は、爾後フランス語でしかしゃべらないという教え方なので、一回休んでもついていけなくなるような雰囲気の中にあったし、酒の好きな友人に囲まれていたので、いつしか、夜の巷の楽しみの方に引っ張られて、途中で止めて了った。それでも、モーパッサンの物は「水の上」一冊を辞書を引き引き読んだし、もっと大事なことは、映画の主題歌「巴里の屋根の下」と「巴里祭」などを原語で唱えるようになったのである。
 勿論ハリウッド製の映画も随分みたが、われわれ高校生に一番人気のあったのはフランスの映画で川喜多夫妻の東和商事(トービス)の輸入した物であった。
 寄宿寮の同じ部屋で文字どおり枕を並べていた同級生の中に―もう名前を言ってもいいだろう―東村勝人がいた、当時、受験生の間で最もよまれていた受験雑誌「受験旬報」(欧文社)でよく名前を見て紙上で知っていた彼と、クラスで一緒になると予想もしていなかった。
 彼は私生活においても、私達より一歩も、二歩も進んでいて、もう彼女もいたようであった。
 彼は寮の機関紙「向陵時報」に既に小説を発表していた。私どもより遙かに大人であることは、彼の書いたもので充分知ることができた。
 彼は、われわれと同じように授業はすっかりなまけていて、専ら小説を読み、専ら小説を書いていた。
 その頃であった。表題の「人の気も知らないで」という文句で始まるシャンソンを彼が好んで唱っていたのは。「Tu ne sais pas aimer」と原語でも唱っていた。
 うろ覚えで日本語で書くと次のようだった。
   人の気も知らないで 涙も見せず
   笑って別れられた心の人だった
   涙涸れて むせぶ心 悲し 片思い
   人の気も知らないで つれない あの人
 自習室の中で、椅子に反対に股がりながら、黄色く染まった指先でタバコを喫いながら、いつもこの歌を唱っていた彼の姿を折りにふれて思い出す。
 彼は私どもの一年上級生であったが、二年に進むときに落ちてわれわれと同じクラスになった。
 ところが、そこでも重ねて落第となりそうであった。学校の規則では続けて落第は退学ということになっていた。一回づつ落ちて六年かかって高校(三年制)を卒業した有名な先輩もいるが、つづけて落ちるのは救われなかった。
 流石の彼もその報を受けた時は涙を流してわれわれ同級生にビッテで回ってくれないか、という。寮の小使部屋で水道の水で涙の顔をゴシゴシ洗いながらの彼の願いで、われわれは早速手分けをして教授の自宅回りを始めた。
 ビッテというのは、落第点をつけた教授の宅へ押しかけて、何とか点を足してくれるように友人が頼むことであって、ドイツ語から来ていた。
 いつもなら割と効くこのビッテも東村に関しては効かなかった。というのは、頑強に反対した教授もなかったわけではないが、何せ欠席日数が年間七〇日を越えていたのが、まずかった。
 代返が当り前に行なわれていたが、一日八時間計算で欠席と明らかにわかった授業日数が七〇日を越す場合は、いくら成績が良くても進級させないという鉄則は厳しく守られていたのである。
 かくして東村はクラスから離れて行ったが、その後の消息は、私は、聞いていない。
 ただ、この「人の気も知らないで」というシャンソンを聞く度に、若き日の東村の姿を思い浮かべるのである。
 
 


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