back 理事長 相沢英之 のメッセージ
       「地声寸言」
  2012.09.06リリース

第百三十二回 <慰安婦の問題>
 この問題は解決していた筈なのにいつまでも韓国側が持ち出しているばかりか、先般の韓国大統領の竹島訪問さえこの問題に関連していると伝えられているので、戦争中中支戦線の陸軍にいた私としても一言意見を述べて置きたいと思って筆を執った。
 私は、昭和十九年五月北支方面軍司令部を皮切りに中支湖南省咸寧の第十二旅団司令部、漢口の第三十四軍司令部に勤務した経理部将校であった。それらの地区で見聞きしたこの問題に関連する事実について率直に記しておく。
 ただし、この問題について記す前に注意しておきたいことは、戦前はもとより戦後昭和三十一年に売春防止法が成立するまで、吉原、玉ノ井など全国各地に公娼地があったほか、私娼窟もあり、到る処で商売としての売春が行われていたし、世界各国において公然、非公然を問わず、売春が行われていたという事実を忘れてはならない。
 昭和三十年欧米に出張したのを初めに何回となく外国に旅行をしたが、有名なブラッセルの飾り窓を見せて貰ったのを始め、ロンドンで高級な売春婦の現われるレストラン(イギリスの某海軍卿が通ったという)やハンブルグの街娼で有名な街も見物させて貰った。
 勿論、売春は法律で禁止されるまでもなく非人道的なものとしてなさるべきものではないことであるが、今述べたように戦前日本でも売春が公然と認められていて、それを取扱う業者も数多くいたという事実を知っていないと、朝鮮人の慰安婦の問題についても正当な認識が出来ないのではないか、と思う。
 北京にいた時、同じ軍司令部の将校の連中でも前門(チェンメン)の公娼に通っている人がいた。軍の施設ではなく、一般人も利用する施設で、これが一区画を占めていて、天安門の南、前門にあったから、そう呼ばれていた。
 宿舎の風呂場などでよく唄われていたざれ歌があった。
 
 「馬鹿は行く行く前門(チェンメン)に
  青い顔して朝帰り
  カラの財布を振り乍ら
  一毛(イモ)銭(チェン)の洋車(ヤンチョ)に乗りかねる」
 
 咸寧の歩兵第十二旅団司令部経理勤務班長としての数ヶ月間、私はゲリラに襲われる危険を冒し、若さに委せて、隷下の大隊本部を業務指導で回った。その大隊本部にも小さい慰安所が設けられていた。旅団司令部の所在地、といっても米軍機の爆撃でたった一つの発電所も破壊されてランプで暮していたが。そこにも一ヶ所慰安所があった。
 慰安所は業者が経営していた。軍は、衛生部の将校・軍医が定期的に慰安婦の病気の検査をしていて、その結果を各人別に姓名(営業上の名前)・病状などを書いた一覧表にして机上に配っていた。
 軍は業者がボラないように定価を決めていたし、兵隊は切符を買っていた。司令部から外れた地区に慰安所はあったが、休みの日など兵隊が切符を手に持って並んでいるのを見たことがある。慰安所の利用は兵は日中、将校は夕方以降となっていた。
 詰り、軍は、兵隊のために検査と価格を決める限度において関与していたと言えよう。勿論、軍そのものが慰安所を経営していたような気配はなかった。
 私は漢口には、最初武漢防衛軍司令部に派遣で赴任し、直ぐ咸寧に転勤したのであるが、そこには半年足らずの勤務で漢口の第三十四軍司令部経理部勤務を命じられた。漢口は当時人口六十万と言われていた大都市であったが、漢口に司令部を置いていた第五航空軍が朝鮮の平壌に転進して以来、対空は無防備となった。それまでは桂林、柳川などから夜間の爆撃に往復していた米航空軍(司令官・ドウリッドル中将)のB29も昼間悠々と飛来し、しっかり見定めた目的物に一トン爆弾や焼夷弾を投下するのを切歯扼腕、指を咥えて眺めているしか仕方がないような状態であった。明日をも知れぬ命と言うのは、こういうものかと思った。
 こうなれば、一日一日が問題であって、無事夕方灯ともす頃ともなれば、さあ命があった、飲みに行こうか、ということになるのであった。
 私は、最初は経理部庶務科の将校であったが、三、四ヶ月にして調弁科に転任した。ここは対日還送物資の収買を担当するところであって、事務所も軍司令部のある郊外ではなく、街のど真中のもとイギリスの銀行の漢口支店を占領して使っていた。中野科長の下に主任将校が七人で、私は、鉄・非鉄の収買、全収買物資の梱包、輸送などを担当していた。漢口在住の日本の商社は数多く、日本人商社員だけで三千人を超えていた。彼等は右腕に「呂武集団」の印をつけていたが、それだけで夜の街にはもてていた。
 軍契約の料理屋として将校用の偕行社、喜蝶、曙があった他、街中には民間の料理屋として、八重菊などがあった。これらの料理屋には、内地のように内芸者に相当する女性がいた。九州出身者、とくに、天草出身者などが多かったようだが、いずれも博多出身と名乗っていた。内地は既に米軍の爆撃下にあったし、何といっても、漢口あたりは食べ物は不自由はなく、金さえ出せば何でも買え、それなりに生活を楽しんでいたし、親御さんに内地送金などもしていた。
 昭和二十年の晩春、それまで漢口に司令部を置いていた第十一軍が粤漢打通作戦のため軍を挙げ前線に出動した。その後に兵站基地を護る軍としてわれわれ第三十四軍が、軍隊区分であった武漢防衛軍を改編、正式の軍として編成されたのである。その際、何と、第十一軍は軍の関係の料理屋の女性達を第三十四軍の将校たちに残して行くのは心残りがするとして、皆、内地に送り還したのである。彼女達は一旦内地に帰ったものの、爆撃は戦地と同じ様だし、第一ろくな食べ物もない、ということで、やがて皆漢口に逆戻りして来た。
 この女性軍と将校達の間には、緊迫した戦地の空気の中にあっただけに男女の関係が生じたとは考えられるが、鞘当てがあったり、将校間で取り合いがあったりしたことは御多聞に洩れなかった。
 ある時、料理屋で若い将校の喧嘩が発展して、庭に出ろということになり、軍刀を抜きあっての決闘となった。その時は同僚が中に入って大事には到らなかったが、日頃女性群が宴会で若手の所へ行きたがるのを快く思っていなかった佐官組が、これを耳にして、何を思ったか、軍司令部の日日命令で、爾今、尉官は之等の料理屋に出入りしてはならぬという禁止令を出したのである。このような命令は前代未聞であった。
 いずれにしてもこの軍の料理屋とは別に石桂里という慰安所があって、司令部の将校も通っていた。私は、生理的に嫌いなのでこのような場所に足を踏み入れなかったが、そこには朝鮮人のほか日本人の娼婦もいて、将校用と兵隊用とは区分されていたと言う。いずれにしても、内地の業者が経営していたのであって、軍は設置を認可していたに過ぎない。したがって、軍が銃剣を持って強制していたような事実は聞いていない。
 ただし、業者が彼女らを内地や朝鮮で募集するに際して、会社勤めとか、料理屋の女中とか、ウェイトレスの仕事とか言って騙して連れて来て、現地で無理強いに売春行為をさせた、というようなことは耳にしたし、事実あった、と思う。
 いずれにしても、当時、日本内地でも公然と行っている商売を戦地でも行ったものと考えるべきである、と思う。
 
 


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