back 代表理事 相澤英之 のメッセージ
       「地声寸言」
  2013.07.05リリース

第百四十六回 <糸川ロケット>
 この間ある新聞の「時代の証言者」をいうコラムに「日の丸ロケット」という題で秋葉鐐二郎がかつて有名であった糸川ロケットについての追憶話が載っていた。
 かつて私が大蔵省主計局で文部省予算を担当していた時に糸川博士がペンシル・ロケットを飛ばすようになったのである。
 まだ科学技術庁が創られていない頃で、博士は東大の第二工学部の教授ではなかったか。生産技術研究所の教授を兼ねていたかなと思う。
 糸川英夫博士は東大卒業後、中島飛行機に入社。かの有名な戦闘機「隼」等の設計に当っていたが、昭和十六年第二工学部助教授に転職し、戦後ロケット開発に携わることになった。昭和二十三年教授、二十四年工学博士。糸川英夫教授は前例にとらわれないユニークな考え方と行動力を持った人で、著書「逆転の発想」はベストセラーになり、天才と呼ばれた。
 糸川さんは当時、既にこれからの空はもうジェットの時代ではない、ロケットの時代だと言う考え方を打ち出していた。
 長さ五〇センチにも満たない実験済みのロケットの現物を携えて主計局に現われた糸川さんの熱心な説明を乏しい理解力をもって長々と聞いたことを思い出す。
 その頃は文部省の予算を担当していた。その大学学術局の科学研究費予算の中に特別研究費の枠があり、そこから特に予算の段階からプロジェクトを明らかにして、いわば特掲した予算をつけていた。私は、生来この種の予算は好きだったし、糸川ロケットの推進に協力することにした。
 糸川ロケットはペンシルから、ベビー、カッパー、ラムダ、ミューと成長し、今や鹿児島の大隅半島にある宇宙開発研究機構(JAXA)で打ち上げられようとしている。
 かつて糸川教授の愛弟子で東大教授として長らく宇宙開発に努力してきた秋葉鐐二郎氏は「ロケットのなんたるかもよく知らない連中が集まって〇から作り上げた」と書いている。
 「米国から教えてもらった技術をもとにした大型ロケットJH2A」とは全く違う。だから、僕らのものを「日の丸ロケット」と呼んでもいいでしょう。
 素人の私はよく知らないが、糸川ロケットは固体燃料を使用している、という、大きな違いがある。
 糸川博士は、なかなかユニークな存在であって、単なる研究者というより、実験、試験を現場で進めて行く事業化でもあった。
 ラムダーの型になっていたと思うが、秋田県の道川で打ち上げるから是非見学に来て欲しい、というので、文部省の連中二、三と出かけることにした。
 道川の現場では糸川教授、褐色の作業服を身につけて、無線片手に次々と指示を与えていたが、指揮官らしく生き生きと動き回っていた。
 週刊誌あたりも彼を追っていた。道川へ行ったら、糸川さん、糸川さんと歩く街道筋から黄色い声もかかるとか、岡焼き半分の記事も読んだ。
 ラムダーの打ち上げは成功裏に終った。白い雲の尾を引いて何キロか先の日本海に没入した。ああこれ一発が六〇〇万円か、という思いがあった。
 世界的にも関心を集めていたのだろうか、イギリスBBC放送局の人達も道川に撮影に来ていた。
 東京天文台長の畑中氏やBBCの連中と一席お祝いの席で大分きこしめた後、夜も十時過ぎに秋田発の夜行列車に乗り込んだ。
 興奮冷めやらぬ呈のままに停車する度にアルコール類を買い込んでの列車内での宴会となった。
 その中、歌が出る。私が聞く。皆はケンブリッジかオックスフォードか、答えて曰く。ケンブリッジかオックスフォードかなんて今頃聞く奴はいない。「ケセラ・セラ」「なるようになれ」真夜中の車内で大合唱をやって車掌に何べんも注意を喰ったことを昨日のように思い出す。
 日の丸ロケットは成長し、国際的にも充分存在感を示すようになった。
 
 戦前、科学技術院にいた学者の人達は、戦後、文部省の大学学術局研究課に移っていたが、文部省からの分離を求めて運動を続け、昭和三十年、科学技術庁として独立するに到った。
 当時、私は、主計局にあって文部省担当の主計官をしていたが、この庁の発足には強く反対をしていた。
 一つは無論、官庁を多くすることによることによる行政運営上の経費のロスであったが、も一つはとくに新設科学技術庁が自分で下部に研究所を作ろうとしていたからである。
 内閣の科学技術関係の行政を一元化して行うことには無論反対ではない。列強に伍して先進的に研究開発を進めるためには必要なことである。
 私は、そういう機関を作るなら、直属の研究機関などを持たず、予算とそれを配分する権限を握れるもので必要にして充分ではないか、と考えていた。
 なまじ、自分の直属の研究機関などを作れば、どうしてもそれを可愛がるようになって、とかく仕事が偏る心配があるばかりではない。緊急な、又大事な研究を推進するため作った機関も一応役割を果たす。ところがその機関を存続するために予算を使うようになる。話は逆になる。
 東大に航空研があるのに科学技術庁に宇宙研を作ろうとする、東北大学に本田鋼、三島鋼などを作った世界的にも有名な金属材料研究所があるのに別に物性研を作ろうとする。例えばであるが、そういうふうになる怖れが大であった。
 しかし、主計局からだけではなかったが、反対を押し切って科学技術庁は設立された。鳩山内閣で、初代科学技術庁長官には読売新聞の正力正太郎が就任したと記憶している。
 歴代内閣は行政整理を表面的には放棄したことはない。しかし、その相当部分は単に外面的なものであって、「統合」と称していくつかの組織を一本にするだけのものも少なくない。宇宙開発も二つの組織が一本になった筈だが、相変わらず鹿児島の大隅半島と種子島に分かれて、それぞれの道を進んでいる。それなら、それでいい。表面を糊塗する必要ななかろう。
 糸川博士は後にご自分の研究所を設立した。週刊誌で文字通りダンスをしているところを拝見したし、研究所でのゴタゴタを書かれたりしたが、とても憎めない、面白い人であった。
 私の書斎の隅に糸川氏が参考に持ってきた火薬のススまみれのペンシル・ロケットが転がっていたが、今は見当たらない。探して見ようと思っている。
 
 


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