back 代表理事 相澤英之 のメッセージ
       「地声寸言」
  2013.12.27リリース

第百六十二回 <雪>
 寂聴さんの「私の京都小説の旅」を読んでいたら、嵯峨野の広沢の池に主人公が雪を見に来たくだりがあった。
 「来てよかったと思った。霏々と舞う雪が、折からのあるとも見えない風に、つむじを巻きながら、池の上を斜めに走っていく」。
 雪というといろいろなことを思い出す。
 私の一家は、私が宇佐で生れて間もなく、父の勤務の関係で新潟県は高田に移った。
 高田は雪の深いところである。日本のスキーは高田連隊から始まったと聞いたことがあるが、本当だろうか。
 父が一本のスティックを手にしてスキーをはいている写真が残っていたから、軍隊だけではなく、一般の人もスキーを楽しんでいたのだろうか。
 二、三才の頃であるから本当に自分の記憶か、どうか、はっきりしないが、冬の朝早く近所の大人達が晩に降った雪を踏んで子供達が登校する道を作っていたことや、雪が深くて隣家へも雁木の下を通る雪の中の道を歩いたことや、二階の窓から出入りしたことなどを思い出す。
 その雪を冬の終りに大きな鋸で切って氷室に蓄えて、氷の代わりに使うと聞いている。それと同じ氷室を京都の修学院離宮で見たこともある。
 地球温暖化がしきりと言われているが、確かに昔の方が寒かったし、小学校の教科書に「雪やコンコン、霰やコンコン」の歌が載っていたと思い出す。一冬に何回かは三、四十センチも雪が積って、雪だるまを作ったり、雪合戦をしたことを思い出す。下駄の歯に雪が詰って、その辺の石の角で下駄の雪を掃い落したものだった。
 雪だるまの眼は南天の実、口や眉は炭だったが、頭に何をつけたか、思い出せない。
 私は、小学校は横浜の根岸に通っていた。
 登校の途中、何とかさんとという大きな家があって、そこの傾斜した庭で中学生ぐらいの子がスキーで滑っていたのを思い出す。余程の金持でないとスキーなど持ってない頃であった。
 昭和十七年に大学を出て、学徒動員、経理の士官として赴任した中国では雪に遭わなかったが、二十年八月北鮮で終戦を迎えて私達は十一月ソ連に運ばれ、ドップリ雪と氷に囲まれる生活が始まったのである。
 ソ連の冬の寒さなどについては、もうあちこちで書いてもいるし、今更述べることはないが、とても想像しえないような寒さであること、それは人間の生活にどんなに大きな関わり合いがあるか、だけは知って載きたい気がする。
 ボルガ河の厚い氷、重戦車が通ってもビクともしない程厚い氷を五月ともなれば四発の爆撃機が爆弾投下して砕いている音を今でも思い出す。そうしなければ、上流から流れて来る雪どけ水で広い川も氾濫をするのであった。
 昭和二十三年夏復員した私は大蔵省に復帰して、主として主計局で予算査定に取り組むことになった。
 法規課長の時、積雪寒冷地帯の助成法案を作ることになった。建設省の計画では日本の国の五〇%以上が豪雪地帯になるというので、何が何でもそれは酷かろうとやり合ったことがあったが、地図をよく見てみれば、長細い日本列島は本当に平地が少なくて、魚の骨のような山の続きに鮃の縁側のような平地がくっついているように見えるので、ヨーロッパのフランスなどは違うことがわかった。
 昭和五十一年十二月、私は衆議院議員に選出されたが、作る時から関係のあった日本システム開発研究所の理事長となった。
 この研究所で雪と氷の経済・社会に与える影響について調査、研究することを建設省から委託を受けた。
 雪は通常は邪魔なものとして受けとられているが、他方、雪がなければできないスキーなどというスポーツもある。
 融雪、除雪などに労力、経費もかかる。雪国の地方自治体の負担も少からざるものがある。が、同時に、雪を克服(克雪)するばかりではなく、これを利用する利雪がある。
 スキーやスノーモービル、雪と氷の祭典など。
 私は、札幌大通り公園の雪と氷の美しい像を何回も見物に行ったし、シス研が受託した事業を見に新潟県の二十日町へも行った。
 昔ながらの造りの宿屋に泊って、おいしい酒を飲み、自衛隊の協力をえて作った。雪の舞台で少年隊が乱舞するのを眺めた。人口三万人の町に五、六万人の人出で、夢のような光の織りなす舞台から夜空を圧する歌声は素晴らしいものであった。
 この祭典は青森県の大鰐でも、長野県の大町でも行なわれたと記憶している。
 雪の積極的な利用方法としてスノー・ダムがある。水は堤防以上には溜められないが、雪はそれ以上に積むことができる。それをダムに利用する研究も建設省が治水対策の一環として行なっていると承知していたが、今はどうなっているだろうか。
 「南の国に雪が降る」というような題の芝居があったように思うが、暖かい国の住人は雪は氷を知らない。
 近頃、ニュージーランドあたりから、北海道へ旅行に来る人も多く、中にはニセコ・アンヌブソ辺に住居を求めて住みつく人がいるとか。
 私の選挙区だった鳥取は大山がスキーで知られている。国立公園になっているので、環境庁の出張所があるが、マイナスのことばかりして詰らない存在である。かつて私が自民党の行革副本部長をしていた時に、この出張所全国十数ヶ所を全廃することを提案したら、そこを地元とする議員の賛成の合唱をえたことがあった。詰らない理由は別に記したものがあるので、ここで繰り返さないが、現状を変更しないことだけをかたくなに守るだけが使命なら、それこそ出張所は廃止して、あとは警察に委せればいい、と思っている。
 南の九州には雪が降らないか、と思っていたら、九州山脈の北側は、中国山脈の北側と同じように結構冬は寒く、雪も降る。
 いつか、これは山脈の南側であるが、久留米に春四月半ば出張で行っていた折に俄かに大雪に遭い、電車に閉じこめられて数時間立往生してことがあった。そういうこともあるから、日本も狭いようで、広いなあと思った。
 「雪」というと富士の白雪と言われるように色でいえば白である。雪は白さの表徴である。
 舟橋聖一に「雲夫人絵図」三上於菟吉に「雪之丞変化」といういずれも当時有名であった小説があった。
 「雪国」は川端康成の作であることは言うまでもないが、私が旧制一高に入学した頃丁度単行本として創元社から発行された、西洋舞踊の紹介などをしている島村がたまたま泊った上越の温泉町(湯沢)の芸者駒子との何度か会ううちに深まる愛情の物語である。徒労に似て無償の美しさを感じる純粋な愛情の世界にひきつけられて、さあ何回読んだであろうか。
 ある時、新潟方面へ出張の折に、この小説のモデルとされる湯沢高半ホテルに泊った。「駒子の部屋」なども見たが、それよりも亭々と立ち並んだ杉の林に雪のかかった道を歩いた時は、何かまことにすがすがしい気分にひたった。
 昭和二十年の十二月二十七日頃、シベリア鉄道のキズネルという寒駅で下車させられた私達抑留者は直ちに収容所のあるエラブガに向って出発させられた。まだ欲があったし、重い荷物を背にして部隊は降り積む雪の中を行軍を始めた。
 ゆきはかなり積っていたが、ひつきりなしに暗い天空から舞い降りて来て、陽の光も見えなかった。
 道のところどころには大きな風車が、黒い大鷲が翼を拡げているように立ちはだかっていた。
 絶え間なく、降ってくる雪の中で道もハッキリしないだけに方向を見失って了う。前の人の背中から離れないようにと滑る雪靴を踏みしめるしかない。
 その中、誰かが倒れる。引き起こそうと手を引っぱるが、もうダメ、ほっておいて、先に行ってくれと言う。
 雪の中で寝ていては俟っているのは死である。
 手を強く引く。だめだ。頬をひっぱたいてやる。だめだ。もう構わないで、先へ行ってくれと泣くように言う。こちらも体力の限界になってくる。仕方がない。「何とか起きてついてこいよ」と言いつつ、おいて出かける。道の両側はおおかみが走っている。
 何十年も昔のことである。しかし、決して忘れない。戦争が済んで、受けたこんな不当な取扱いを。ソ連もつまらないことをしたものだ。
 
 


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