back 代表理事 相澤英之 のメッセージ
       「地声寸言」
  2015.11.19リリース

第二百二十五回 <諌早>
 何故、九州の小都市の名を覚えているか、と言うと、一つは昭和二十七、八に年に西日本の大風水害があって、諌早川辺の中学校が濁流とともに流された。その復旧をどうするか、という問題があったからである。
 災害復旧は、当時も原形復旧が原則であった。今だって、公共事業の関係者はそれが大原則だと言って憚らない人が少なくない。復旧だから、もとの通りにするのが大原則である。従って、火事や天災にあって壊れた小中学校の災害復旧は、木造であったものは、木造で建て直すのが原則であったのである。実際建てる時は鉄筋コンクリートの校舎にしても一向差支えはないが、国の補助としては、原則の木造での復旧となっていた。
 今でもよく覚えている。当時の諌早市長の野村儀平氏が又災害で壊れるといけないから鉄筋コンクリート造での復旧補助にして欲しく、当時文部担当の主査の私に日参しかねまじき陳情を繰り返していた。
 始めは厳に反対していた私も、彼の熱意に負けて、やはり鉄筋で建て替えすることを認めるのが妥当ではないか、というように考え直して、結局、全国で初めての例として認めることにしたのである。
 もっとも、その頃、北陸は富山県魚津の小学校がフェーン現象もあって火事で焼けた時は、例外として、鉄筋コンクリートでの建築を認めることにした。その例を思い出したのである。
 後年、再び諌早を訪ねる折があって、例の中学校を見に行ったが、場所が変ってはいたが、鉄筋の校舎として立派に建っていて、何となく懐かしい気がしてならなかった。
 雨来私は、復旧という言葉には正に旧に復するから復旧であるにしても、違った形での復旧を認めてもよいのではないか、と思うようになったし、制度をそのように改めるべきではないかと思うようになった。
 後年、同じ長崎県で風水害あった時に高田知事と復旧工事の現場を視察した時、やはり、その思いを強くした、少なくとも、原形復旧にベラボーに高い費用を払うくらいなら、その金額の範囲内でもっと安全な場所に施設を作った方が、何ぼ合理的かわからない、という議論を交したことを思い出してならない。
 昔から、こういう公共災害復旧事業を取りあってきている人こそ、原則を変更するのを嫌がるようであるが、そこは、よく考え直して貰わなければならないと思っている。
 復旧する施設を前よりも良くすることを、いわゆる焼け太りなどとして反対しないで、災害復旧の復旧という言葉にとらわれないで、より合理的な災害対策を考えすべきではないか、と固く思うようになっている。
 
 


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