back 代表理事 相澤英之 のメッセージ
       「地声寸言」
  2016.03.16リリース

第二百三十五回 <災害対策>
 東日本大震災から丁度五年目の三月十一日を迎え、マスコミは一斉に災害対策の問題と採り上げている。災害は忘れたころにやってくると言われるが、自然災害の多い日本の国に住む者にとっては普段からの災害対策が重要なのは言うまでもない。
 「『田老』は何度もやり直してきた」という見出しを3月3日の「産経新聞」の一面に見た。東北の三陸海岸には、昭和三十五年四月チリ津波災害の一ヶ月後に農林担当主計官として視察で訪れた。
 田老地区は明治三年、昭和八年と自身の被害を受け、恒久対策として時の町長が勇断を持って「万里の長城」と呼ばれる高さ一〇メートル、総延長二.四キロの防潮堤を築き、盤石の態勢を整えたのである。その町長の銅像も建てられた。
 三十五年のチリ津波の時は、その万里の長城の裾をわずかに濡らす程度の水であっただけであったが、他の町もこういう対策を講じておく必要があるな、と農林省や県の随行の人たちが話していたことを覚えている。
 その壁を今度の津波は決壊し、百八十一人の犠牲者を出したのである。
 私は三陸の海岸をつぶさに視察をしながら、三陸の海は世界的な漁場といわれている、船もある、港もある。海岸を離れ難い気持ちは充分わかるが、せめて住むところは津波の来ないような高台に移さなければいけないと思った。
 それ以前の津波の時に海岸近くの道路を思い切って高い所に引き揚げ、それから下には家や施設を作らないようにしようという決議をした町もあり、事実そういう町は被害を蒙らなかったのである。
 今から思えば、昭和三十五年のチリ津波の時にもどうしてそういう決定ができなかったのだろうか、と思う。
 もちろん、それには幾多の障碍となる問題を解決し、巨額の投資と助成をおこなわなければならないので、容易なことではなかったと思うが、少なくとも多くの人命を失わないで済んだのではないか。と思うにつけて、あの折に国が先頭に立ち、不動の態勢で対策を貫くべきではなかったのが悔やまれてならない。
 リアス式の三陸の海岸は小漁港が数多く、宮古市などは十六、七も小港があると聞いていた。それらの港の数を整理し、規模を大きくするために、港を区切っている山を串刺しにする臨海道路の建設によって大きな港としての整備を進めることも検討し、一部は実行されたと思うが、目の前に船をおいておきたい漁師の心情もまた無視しかねたのではなかろうか。
 以前にも、この欄で触れたと思うが、三陸海岸の安全性を保持しつつ、再建を図って行くには、思い切って住む町を丘の上にあげて、港へ通ずる道路を整備するより他に対策はないのではないか。
 十メートルの堤防を十三メートルや十五メートルにしたって(そういう計画も聞く)充分とは言えないのではないか。
 「故旧忘れ得べき」。故郷を離れ難い気持ちは充分わかるが、新天地の開拓を求める決断も大切なのではなかろうか。
 
 


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