back 代表理事 相澤英之 のメッセージ
       「地声寸言」
  2017.09.21リリース

第二百七十回 <街の姿>
 週日は殆んど毎日同じ時間帯に同じ道路を車で走っている。
 以前は新聞を何紙か持ち込んで、見出しだけでもと思い眼を通していたが、それも疲れるので、この頃は窓の外の変化をぼんやり見つめていることが多い。
 この頃気のつくのは、少しづつではあるが、街の姿が変って来ることである。何処がどう変ったか、日く言う難いところがあるが、ごく一般的に言えば一件一軒の建物が少しづつ大型化し、ビル化し、ガラス窓の部分が大きくなっていることである。
 クレーンが立ち並んでいるかと思うと、今迄の何層倍かのビルの姿が現われてくる。
 私の事務所の入っているビルは十階建てぐらいであるが、いつの間にやら他の会社に売られていた。知らせを受けた時、私は、事前にそういうことを知らせるのが仁義ではないかとなじったことを覚えている。会社がより大規模な建物を建設するために、その財源として既徃の小型のビルを幾つか売った、らしいのである。
 ビルの名前は昔は今から見れば平凡は、その頃としてはもっともわかり易い字で書かれていたが、最近はただ数字入りのものやら、「おいしい」だけの飲食店やら、「早い」とだけの理髪店やらの名前もよく見かけるようになった(以上は例で)実際の名としては見ていない。
 それにも一つ気がつくことは、道路や建物の一部にスピードで妙ちくりんな文字やら絵のようなものが画かれていることである。
 昔、在学していた高校の便所にいろいろな文字やら文章などを見かけた。なかなか気のきいたものもあって、そのまゝ長く保存しておきたいようなものも少くなかった。自分も一筆書いておきたいと思ったことも少くなかったが、どうも勇気がなかった。
 寮の自習室の入口にも文字が書いてある。「叫けよさらば開かれん」、「開けよさらばなぐられん」とか「叩かれん」。「一寸、気がきいているではないか」。
 戦後二年余、ソ連抑留から解放され、舞鶴に上陸してから東海道線の窓から無残にも壊れたり、焼かれたりして、街というより焼野原を見ていた時は、もう日本が再生することはできないのではないか、とすら思った。
 横浜の山手に近い所に父がやっと建てた家も焼夷彈で丸焼けとなり、小学校の校舎を改造して疊を申訳程度に入れただけの住居から役所に通うようになったあの頃は本当に情ない気持で、毎日のよに水割りのしょうちゅうを飲んでいたが、今は、その頃、思っても見ないビル街への変貌である。
 今又、三年先の東京オリンピックの開催に向けて、到る所に工事中の札がかかっている。
 切角招来したオリンピックが立派に成功するようにしたいものであるが、それができるようにするために都民も我慢しなければならない不便さは覚悟しなければなるまい。いやその前に都政に関与する人達の決断が必要だと思う。
 
 


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